乙女よ。その扉を開け
奈緒の過去
珠はひよの体を回り始め、そして――体中に何十もの目が浮かび上がった。
「うわ!?」
見ると、天井・床・壁にまで無数の目が動いていた。
「な、何ですかこれ?」
思わず隣にいたしんの裾を掴む。
「ひよの異能。百目っていう妖怪の憑依とも言われてるよ。うん、この異能はホンットに見たくないわ。キショイ」
「それ絶対ひよに言っちゃ駄目だよあさ。あの子怒ると手に負えなくなるんだから」
紫はひよを見た。その顔つきは先程とは全く異なり口を引き結び、目は見開かれたまま謎の光をまとっている。
「ひよちゃんは……今何をしているのですか」
「依頼人の過去を見てるんだよ」
(過去?)
「心を悟るだけじゃなく、現在誰がどうしてるか、過去にどんな事件と関わっていたか。稀に未来が見えるらしいけど」
「あの、それプライバシーは」
「無視無視」
「……」
あやの説明が終わると同時に無数の目が姿を消していった。ひよの体からも目が薄れていき本人は肩を落として力を抜いていた。
「分かりましたよゆか」
大分疲れた様子でひよが言った。
「えっと」
「奈緒さんがどうしてあそこまで旦那様に依存しているのか。明日解明したいと思います」
「ああ……え、分かったの!?」
ひよはこくりと頷いた後、慌ててマスクを付けた。
「くそぅ! もう少しで食わせられたのに……!」
あやが忘れられているメロンパンを手に取っていた。
「ひよ頼むよーもやもやするから」
「……」
渋々と言った感じでひよはマスクを外し匂いを嗅いだ。
「別に頭痛もしませんから入っていないか入っているとしてもごく少量ですね。だからって食べませんからね!」
押し付けようとするあやを追い払ってひよは自室に戻ってしまった。
「ああ……ってもう七時過ぎてんね。社長は残業かな」
「さっき職員室に行ったら先輩教師に捕まってたし飲みに行かされてるんだと思うよ」
「ふーん。ま、こっちはこっちでもう終わりにしちゃいましょうか。今日は……まさだっけ?」
まさは眠たそうにフラフラと結界を張りに行った。紫はというとひよが入っていないと言っていたメロンパンの残りを齧ってみた。
(……何でこんなのを商品にしたんだろ?)
「昨日振りでごさいます奈緒さん。そして旦那様も初めまして」
ひよと紫は事務所から歩いて数分とかからない登坂家に出向いていた。
(う、浮気調査なのにこんな堂々と)
「あ、あの和田さん? 私確か……」
「はい。浮気調査ですわね!」
その場の空気がピシッと凍りついた。
「……浮気?」
奈緒の旦那――広樹がひよを睨みつけた。
「ええ。まあ旦那様――広樹さんは未遂ですが」
「な……じゃあこの頃の変化は何だって言うの! 帰ってこなかったり休日にどこかへ行ったりしたのは何だったのよ!?」
「奥様に会っていたのですよ」
奈緒が――紫までもが目を見張って広樹を見た。
「お座りください奈緒さん。広樹さんに代わってわたくしが説明させていただきます」
奈緒に彼氏が出来たのは大学三年――二十歳の頃だった。奈緒はその人の傍にいるだけで幸せを感じられるようになり、生きることがどれだけ幸福なことなのかその人から学んだ。
大学を卒業したら結婚しようと二人は決め、卒業式が来る二日前。大学生最後の休日だったため二人は車で軽く遠出をした。
事件は起こってしまったのだ。
よく事故が出ると言われている急なカーブに差し掛かった時、車のハンドルが効かなくなった。奈緒達が乗っていた車はそのままガードレールを突き抜け崖から落ちていった。
奈緒が目を覚ました時、体中には包帯が巻かれてベッドに寝かされている状態だった。目の前には見知った男性が。
「あ、ねえさ……」
「広……樹さん」
「え?」
男性は目を見張った。奈緒は今彼氏の名前を呼んだ。
“死んでしまった”彼の名を。
「ち、違うよ。僕は」
「広樹さんは無事でしたね。良かった。もう二度とあんな怖い目は会いたくありません」
奈緒は男性に力強く抱きついた。男性は気づいてしまった。奈緒は……自分の姉は
「記憶を失ってしまったのです」
ひよは静かにはっきりとそう告げた。
「奈緒さんの旦那様になるはずだった本当の広樹さんは事故によりお亡くなりになってしまった。けれどそれを伝えることはあの時の奈緒さんにとって余りにも酷すぎた。だから自らを偽りの夫として奈緒さんを支えた。そうですよね……透さん?」
広樹は――透は静かな声でひよを責めた。
「何で……何で言ったんだ。姉さんはこのまま真実を知らなければ苦しまずに済んだんだ。浮気だって僕がやったって誤解させても良かった。君がこんなことを言わなければっ!」
「あなたの体が朽ちてもですか?」
ひよがこれまでになく乱暴に放った。
「あなたにはもう一人……事が起こる前に結婚していた女性がおられるようですが先日お子様が出来たご様子ですね。今のままではどちらも養えるお金が無い。けれど家族は捨てられない。仕事の量を増やし心配をかけないよう定時には帰り、休日は奥様の方へ行き家事を手伝う。三日に一回は徹夜。それに加えて睡眠時間は一~二時間。そうでしょう」
透は図星のように黙った。今までずっと黙っている紫や奈緒は何も言えない。
(そんなことを繰り返していたらいずれ病気に……ううん突然死だって)
「そうでもしないと無理なんだよ。家族を養う辛さは君にはまだ……」
「まだ分かんないんですかあなたは!」
ひよが怒声を放った。小さな体からは想像できない程の声量だった。
「あなたが死んだら誰が養うんですか。誰が家族を守るんですか。今は記憶が無くとも奈緒さんはあなたを失う。大切な弟を失う。姉を不幸にして独りにするようなことを透さん。あなたはなさっておられるのですよ」
「……あ」
透は気づいた。自分が死んでも養えれば良い。そんなの間違いだ。奈緒も妻もこれから産まれてくる子も皆将来どうなってしまうのか分からない。だから
「透……」
はっとして振り向くと奈緒が今にも泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「ごめんね透。私が辛い思いをさせたんだね。広樹として私を救ってくれてたんだね」
「ね……さん?」
奈緒は強く透を抱きしめた。
「もう良いよ。偽らなくて良い。我慢しなくて良い。私は姉として最低だけれど。許してくれるなら……もう一度姉と弟としていたい」
とうとう奈緒の目から涙が溢れた。それに続くように透の目からもとめどなく涙が流れた。
紫がひよの方を見ると、いつもの優しい眼差しを持つ少女に戻っていたのだった。
「ありがとう和田さん。おかげで弟とも和解できました」
「いいえ。こちらこそ私情に口を挟みまして申し訳ございません。ついカッとなってしまいまして」
紫は先程のひよを思い出した。確かに普段温厚な人が怒ると怖いと言うのは間違いではない気がする。
「そうだ報酬金!」
パタパタと部屋に戻って行き茶封筒を持ってきた。
「まいど。ところでお二人はわたくしに何の質問もないのですか」
「え?」
「な、何言ってるのひよちゃん!?」
無邪気そうに見てくるひよに二人は目を合わせて苦笑した。
「まあ……不思議だとは思っていたよ。プライバシーに関わるようなことをペラペラ喋っていたからハッキングでもしてるのかなと思ってたんだけど」
「何だか心を読まれてるみたいだったのだけれどどうなの?」
「はい。読めます」
ギョッとした紫は慌てた。
「ちょ、ひよちゃん!? それは言っちゃ……」
(確か異能のことは他言禁止なんじゃ)
「大丈夫ですよ。この方達は誰かに言いふらそうとするような心の持ち主ではありませんので。それに、私には目がついてます」
ひよが前髪を上げるとペイントされたような目が額に現れた。
「何だか脅しのようだね」
「そうだと言ったら?」
意地悪そうに言ったひよは帰り支度を始めた。
「そろそろ帰りましょうゆか。あんまり遅いと青少年何たらで捕まります。あなたが」
「急に生々しいよ。ていうか私が!?」
紫はあわあわとひよを追った。
「それではお二方。どうぞまた機会があれば」
「ええ。ありがとう。気をつけて」
玄関まで送ってくれた二人に軽く会釈をして紫とひよは事務所に戻る道を歩いた。
「そういえばひよちゃん。この前和田家令嬢とか言ってたけどお家は名家なの?」
「……ええまあ。親がいることは幸せだと思いますか? 全ての親が子を愛してるとお考えですか?」
逆に問われて紫は考えた。
「知っていますか。あやとやまの両親はもう亡くなっているのです」
「え?」
そんなこと初耳だ。
あんなに元気な人たちに肉親がいないなんて。
「……」
「……そんなこと話しても仕方ないですね。帰りましょうか」
寂しそうなひよの横顔を見て、紫は言葉をかけられなくなってしまった。
「うわ!?」
見ると、天井・床・壁にまで無数の目が動いていた。
「な、何ですかこれ?」
思わず隣にいたしんの裾を掴む。
「ひよの異能。百目っていう妖怪の憑依とも言われてるよ。うん、この異能はホンットに見たくないわ。キショイ」
「それ絶対ひよに言っちゃ駄目だよあさ。あの子怒ると手に負えなくなるんだから」
紫はひよを見た。その顔つきは先程とは全く異なり口を引き結び、目は見開かれたまま謎の光をまとっている。
「ひよちゃんは……今何をしているのですか」
「依頼人の過去を見てるんだよ」
(過去?)
「心を悟るだけじゃなく、現在誰がどうしてるか、過去にどんな事件と関わっていたか。稀に未来が見えるらしいけど」
「あの、それプライバシーは」
「無視無視」
「……」
あやの説明が終わると同時に無数の目が姿を消していった。ひよの体からも目が薄れていき本人は肩を落として力を抜いていた。
「分かりましたよゆか」
大分疲れた様子でひよが言った。
「えっと」
「奈緒さんがどうしてあそこまで旦那様に依存しているのか。明日解明したいと思います」
「ああ……え、分かったの!?」
ひよはこくりと頷いた後、慌ててマスクを付けた。
「くそぅ! もう少しで食わせられたのに……!」
あやが忘れられているメロンパンを手に取っていた。
「ひよ頼むよーもやもやするから」
「……」
渋々と言った感じでひよはマスクを外し匂いを嗅いだ。
「別に頭痛もしませんから入っていないか入っているとしてもごく少量ですね。だからって食べませんからね!」
押し付けようとするあやを追い払ってひよは自室に戻ってしまった。
「ああ……ってもう七時過ぎてんね。社長は残業かな」
「さっき職員室に行ったら先輩教師に捕まってたし飲みに行かされてるんだと思うよ」
「ふーん。ま、こっちはこっちでもう終わりにしちゃいましょうか。今日は……まさだっけ?」
まさは眠たそうにフラフラと結界を張りに行った。紫はというとひよが入っていないと言っていたメロンパンの残りを齧ってみた。
(……何でこんなのを商品にしたんだろ?)
「昨日振りでごさいます奈緒さん。そして旦那様も初めまして」
ひよと紫は事務所から歩いて数分とかからない登坂家に出向いていた。
(う、浮気調査なのにこんな堂々と)
「あ、あの和田さん? 私確か……」
「はい。浮気調査ですわね!」
その場の空気がピシッと凍りついた。
「……浮気?」
奈緒の旦那――広樹がひよを睨みつけた。
「ええ。まあ旦那様――広樹さんは未遂ですが」
「な……じゃあこの頃の変化は何だって言うの! 帰ってこなかったり休日にどこかへ行ったりしたのは何だったのよ!?」
「奥様に会っていたのですよ」
奈緒が――紫までもが目を見張って広樹を見た。
「お座りください奈緒さん。広樹さんに代わってわたくしが説明させていただきます」
奈緒に彼氏が出来たのは大学三年――二十歳の頃だった。奈緒はその人の傍にいるだけで幸せを感じられるようになり、生きることがどれだけ幸福なことなのかその人から学んだ。
大学を卒業したら結婚しようと二人は決め、卒業式が来る二日前。大学生最後の休日だったため二人は車で軽く遠出をした。
事件は起こってしまったのだ。
よく事故が出ると言われている急なカーブに差し掛かった時、車のハンドルが効かなくなった。奈緒達が乗っていた車はそのままガードレールを突き抜け崖から落ちていった。
奈緒が目を覚ました時、体中には包帯が巻かれてベッドに寝かされている状態だった。目の前には見知った男性が。
「あ、ねえさ……」
「広……樹さん」
「え?」
男性は目を見張った。奈緒は今彼氏の名前を呼んだ。
“死んでしまった”彼の名を。
「ち、違うよ。僕は」
「広樹さんは無事でしたね。良かった。もう二度とあんな怖い目は会いたくありません」
奈緒は男性に力強く抱きついた。男性は気づいてしまった。奈緒は……自分の姉は
「記憶を失ってしまったのです」
ひよは静かにはっきりとそう告げた。
「奈緒さんの旦那様になるはずだった本当の広樹さんは事故によりお亡くなりになってしまった。けれどそれを伝えることはあの時の奈緒さんにとって余りにも酷すぎた。だから自らを偽りの夫として奈緒さんを支えた。そうですよね……透さん?」
広樹は――透は静かな声でひよを責めた。
「何で……何で言ったんだ。姉さんはこのまま真実を知らなければ苦しまずに済んだんだ。浮気だって僕がやったって誤解させても良かった。君がこんなことを言わなければっ!」
「あなたの体が朽ちてもですか?」
ひよがこれまでになく乱暴に放った。
「あなたにはもう一人……事が起こる前に結婚していた女性がおられるようですが先日お子様が出来たご様子ですね。今のままではどちらも養えるお金が無い。けれど家族は捨てられない。仕事の量を増やし心配をかけないよう定時には帰り、休日は奥様の方へ行き家事を手伝う。三日に一回は徹夜。それに加えて睡眠時間は一~二時間。そうでしょう」
透は図星のように黙った。今までずっと黙っている紫や奈緒は何も言えない。
(そんなことを繰り返していたらいずれ病気に……ううん突然死だって)
「そうでもしないと無理なんだよ。家族を養う辛さは君にはまだ……」
「まだ分かんないんですかあなたは!」
ひよが怒声を放った。小さな体からは想像できない程の声量だった。
「あなたが死んだら誰が養うんですか。誰が家族を守るんですか。今は記憶が無くとも奈緒さんはあなたを失う。大切な弟を失う。姉を不幸にして独りにするようなことを透さん。あなたはなさっておられるのですよ」
「……あ」
透は気づいた。自分が死んでも養えれば良い。そんなの間違いだ。奈緒も妻もこれから産まれてくる子も皆将来どうなってしまうのか分からない。だから
「透……」
はっとして振り向くと奈緒が今にも泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「ごめんね透。私が辛い思いをさせたんだね。広樹として私を救ってくれてたんだね」
「ね……さん?」
奈緒は強く透を抱きしめた。
「もう良いよ。偽らなくて良い。我慢しなくて良い。私は姉として最低だけれど。許してくれるなら……もう一度姉と弟としていたい」
とうとう奈緒の目から涙が溢れた。それに続くように透の目からもとめどなく涙が流れた。
紫がひよの方を見ると、いつもの優しい眼差しを持つ少女に戻っていたのだった。
「ありがとう和田さん。おかげで弟とも和解できました」
「いいえ。こちらこそ私情に口を挟みまして申し訳ございません。ついカッとなってしまいまして」
紫は先程のひよを思い出した。確かに普段温厚な人が怒ると怖いと言うのは間違いではない気がする。
「そうだ報酬金!」
パタパタと部屋に戻って行き茶封筒を持ってきた。
「まいど。ところでお二人はわたくしに何の質問もないのですか」
「え?」
「な、何言ってるのひよちゃん!?」
無邪気そうに見てくるひよに二人は目を合わせて苦笑した。
「まあ……不思議だとは思っていたよ。プライバシーに関わるようなことをペラペラ喋っていたからハッキングでもしてるのかなと思ってたんだけど」
「何だか心を読まれてるみたいだったのだけれどどうなの?」
「はい。読めます」
ギョッとした紫は慌てた。
「ちょ、ひよちゃん!? それは言っちゃ……」
(確か異能のことは他言禁止なんじゃ)
「大丈夫ですよ。この方達は誰かに言いふらそうとするような心の持ち主ではありませんので。それに、私には目がついてます」
ひよが前髪を上げるとペイントされたような目が額に現れた。
「何だか脅しのようだね」
「そうだと言ったら?」
意地悪そうに言ったひよは帰り支度を始めた。
「そろそろ帰りましょうゆか。あんまり遅いと青少年何たらで捕まります。あなたが」
「急に生々しいよ。ていうか私が!?」
紫はあわあわとひよを追った。
「それではお二方。どうぞまた機会があれば」
「ええ。ありがとう。気をつけて」
玄関まで送ってくれた二人に軽く会釈をして紫とひよは事務所に戻る道を歩いた。
「そういえばひよちゃん。この前和田家令嬢とか言ってたけどお家は名家なの?」
「……ええまあ。親がいることは幸せだと思いますか? 全ての親が子を愛してるとお考えですか?」
逆に問われて紫は考えた。
「知っていますか。あやとやまの両親はもう亡くなっているのです」
「え?」
そんなこと初耳だ。
あんなに元気な人たちに肉親がいないなんて。
「……」
「……そんなこと話しても仕方ないですね。帰りましょうか」
寂しそうなひよの横顔を見て、紫は言葉をかけられなくなってしまった。
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