くらやみ忌憚

ノベルバユーザー91028

down fall

–––––某日、光陽台市内


「はぁ、はぁ、はぁ……。ケホッ、っは、……やだ、まだ追ってくる!どうしよう、逃げなくちゃ……っ」
深い霧の漂う石畳の敷かれた道を一人の少女が走っていた。
銀色に輝く長髪を振り乱し、懸命に足を動かす。最初は陸上選手のような美しいフォームを保っていたがやがて速度は鈍ってゆき、遂に爪先を石畳に引っ掛けてしまう。
受身を取る余裕もなく倒れ、擦った手のひらに血が滲む。
「っあ、ああ、あああ……!だ、誰か助けてぇっ……!」
蚊の鳴くように微かな声で、少女は必死に救いを求める。
思い浮かぶのは、世界で一番頼りになる最愛のひと。
「助けて、兄さんっ……」



3時間前––––光陽台市近郊。


深い紫と藍の混じる夜空の如き色の髪、瞳は古い黄金の色。怜悧にしていとけない面差しに微笑みは妖艶。黒い外套とワンピースを纏い、左右の耳を金のピアスで飾った少女は高らかに告げた。
「さぁ、一世一代の大戦争が始まるぞ。みんな、楽しめよ」
かつて、世界に破滅を招くとされ怖れられた、全ての異形の頂点に君臨する怪物達の王––––夜光姫は、この上なく優雅に歩き出す。絶対的な余裕の表情で。
付き従うは、彼女を信奉する人外の異形達。鬼の青年、龍の少年、悪魔に天狗に九尾の狐、更には人狼。


そして、喧騒と狂気が街を覆い尽くす。



光陽台市の住民は、その殆どが退魔師またはその関係者であり、生まれつき霊障の耐性を持っている。だが、彼らでさえ耐え切れないほどの濃い瘴気が街に充満していた。
薔薇を腐らせたような悍ましい臭いは魔物の気配、加えて生臭く湿った妖気が肺腑を冒す。頭痛や吐き気で済めばまだ良い方で、酷くなると失神あるいは理性の消失、最終的には死に至る。
学園長である霜華の判断により、学園は臨時休校になった。
周りのクラスメイト達が緊張した面持ちで帰っていく中、霧雨 霞は一人憂鬱そうに窓の外の景色を眺める。
彼女をブルーにさせているのは、最近ろくに顔を合わせていない義兄が原因だった。彼女の心を反映してか、重たく垂れ込めた鉛色の空に、薄っすらと掛かる霧が視界を悪くしている。
今までもこういうことは度々あった。
理由は教えてくれないけれど、義兄は時々いなくなる。姿が見えないとき、彼が何をしているのかはわからない。いつだったか、「霜華母さんの仕事を手伝っている」とだけ言っていたが、そもそも霞は母がどんな仕事をしているのかさえ詳しくは知らない。
彼女にとって、霧雨一族家族とは未知のモノだ。たとえ直系であり開祖の血を引くとしても。退魔師の仕事は、人間に害を及ぼす悪い妖怪や魔物を退治すること。それ以上のことは、
……何も、知らない。
知らないまま、生きてきた。知ることさえも禁じられてきたから。
たとえ蚊帳の外であろうと。それでも傍にいてくれるのなら、それだけで良かったのに。


––––どうして、こんなことになってしまったのだろう。



いつもは車で送り迎えしてもらっている霞だが、今日は徒歩で帰ることになっていた。訳は単純で、お付きの運転手がいなかったからだ。なんだか今日は、朝から妙にみんな忙しくバタバタしていて、とても頼めるような雰囲気ではなかった。
仕方なく屋敷までの道のりを一人トボトボ歩く霞だが、やっぱり思考はどんどん暗い方向に傾いてしまう。このまま義兄が帰ってこなかったら。そんな風に考えてしまう。
「駄目だなぁ、せめて私が兄さんを信じてあげなきゃなのに……。早く、帰ってこないかな」
きっと彼が無事なら、こんな思いはしなくて済むはずだから。
––––その瞬間。
フワリと香る、腐った薔薇の臭気。それから血生臭い匂い。
「なに、この匂い……?」
背筋に冷たいものが駆け下りる。圧倒的な力を背後に感じた。
霊力などなくとも、こんなのは一般人だって気付く。
不意に誰かの嗤う気配がした。
きっとこれは、とても怖いものだ。捕まったらいけない、逃げなければ。
本能が走らせる。
足が勝手に動き出す。


––––そして、冒頭へと至る。


視線の先には、奇怪な外見の恐ろしい化け物。例えるなら、ゲームに出てくる小鬼ゴブリンのような。ギョロリとした金壺眼に牙の覗く口元、でっぷりと肥えた醜悪な身体を揺すっている。
そいつはふしゅうふしゅうと臭気を撒き散らし、一つしかない手で持つ棍棒をこちらへ向けてくる。
「いや、いやぁ、いやあああぁっ!!助けて助けて、誰かっ…兄さん!!」
絶叫。ひたすらに願う。
早く早く、どうか、わたしを助けて。
死にたくない、死にたくない。
気配が襲う。もう駄目だと悟った。
「あ……」
目を閉じる。
迫る来る苦痛から逸らすように。
けれど、衝撃は––––来ない。
「大丈夫?」
優しい声が降る。思わず目を開けた。
ぼやける視界に映る、きれいな顔と揺れる水色の髪。薄布を纏った痩身の女性が、手のひらで得物を受け止めていた。
「霧雨 霞さん、だったかな。私の名は『碧』というの。霧雨一族守護精にして、あなたの護衛です。よろしくね」
完璧に整った美しい笑みを浮かべ、碧はその膂力だけで得物を握り砕いた。
「暴れるしか能のない醜悪な怪物が。我らと同じ人外になど相応しくない。どれ、調教してやろうか」
ひらりと碧は舞い上がり、硝子のヒールでゴブリンの顔面を踏みつける。彼女の周囲から煙の如し冷気が立ち上り、瞬く間に化け物の身を包み込む。
「ぐ……あぁ、ああぁああぁ!!!」
もがき苦しむ化け物の身体が、たちまち凍りつく。分厚い氷のベールによって、そいつは完全に動きを止めた。ゆらり、と碧が歩み寄り、すらりと伸びる脚を振り上げる。そして、
カシャアアアアン!!
けたたましい音と共に、ゴブリンの氷漬けは粉々に破砕される。内部までしっかりと凍結した怪物はもう死んだ。
「助かった…?わたし、生きてる?」
ぱちくりと目を瞬かせる少女の頭を碧はぽんぽんと叩く。
「もう、怖くない。必ず私が守るから安心して」
ポロリと––––蒼い瞳から涙がひとしずく零れ落ちた。えぐえぐと子どものように泣きじゃくる霞を胸の中に収め、碧は瞑目する。
『彼』の代わりに、必ず自分が彼女を守り抜くと。



「あー、やっぱり護衛を付けてたか。まぁ、あれほどのVIP様を一人にしておく訳ないかぁ。……ちっ、あと一歩だったのに」
些かつまらなそうにボヤく男を傍らに控えた青年が睨んだ。
「口を慎め。主人あるじ御前おんまえなるぞ」
「あーもう、うるさいうるさい。口を開けば主人、主人って。さすが犬っコロだな、気色悪ィ」
配下であるゴブリンを放った男––––悪魔「ホロウ=ハーケンシュタイン」は黒い燕尾服から伸びる尻尾を揺らしながら、青年を罵倒する。
ダークスーツに佩刀し、頭頂部から犬耳を生やした青年––––人狼「レヴァ=テール」もまた黙ってはいない。
「我が主を愚弄するか、狡っからい悪魔めが。許さん……今此処で、斬る」
今にも剣を抜こうとするレヴァを細い手が押し止める。
「レヴァ、いい加減にして。少し大人気ないよ」
「は、……申し訳ありません、主」
夜光姫は嘆息し、お前もいちいち煽るなとホロウを窘めた。彼はヘリウムガスより軽い返事をする。
「はいはい、すいませーん。で、あの子どうすんの?殺しちゃう?」
「いや、まだいい。その内機会があるだろうし切り札はとっておくものでしょ」
金の瞳を静かに向ける夜光姫に、ホロウは心底愉快気に尋ねる。
「へぇ、夜光姫ちゃんはあの人間むすめを切り札と思ってるんだ。そりゃまたどうしてだい?」
「……あの娘。義兄に懸想しているようだ。加えて、兄も憎からず思っている。おそらくは。使えるとは、思わないか?なぁ、悪魔」
ニタリと笑う顔はどこまでも無邪気でありながら、しかし悪意に満ちている。その悪魔さえ唾を吐きかけたくなるイビツをホロウは喜んだ。
「いいねぇ、いいねぇ!やっぱり夜光姫ちゃんはサイコーだ!それでこそ、『怪異の根源』『夜の女王』だよ。素晴らしい、仲間になってから、楽しくてたまらない!」
「いいか、金輪際その二つ名たちを口にするのはやめろ。私の黒歴史をほじくり返すな。さもないと……分かっているだろう?」
絶対零度の眼差しを浴びせかけられ、ホロウはカチンコチンに固まる。レヴァを引き連れ、次の目的地へ向かう彼女を見送りつつ、彼は腕に浮かぶ鳥肌をさすった。
「いやー、正直ナメてたわ。ヤベェ超こえぇ。逆らわんとこ」



碧に連れられ、強靭な結界に護られた屋敷に帰還した霞は、やっと義兄––––託人に再開する。
「ただいま、って……兄さん⁉︎いつ戻ってきたの?」
「あ、おかえり霞。碧もありがとう。君のお陰で無事帰れたようで良かったよ」
「いいえ、託人殿にはお世話になっております故。礼には及びません」
慇懃に頭を下げ、碧は退室してしまう。とうとう二人きりになり、霞は駆け寄りたいのを堪えて義兄に問いかけた。
「……兄さん、ずっと気になってたことがあったんだけど。……兄さんは、時々いなくなるけど、一体何をしているの?それは怖いことではないの」
もう、答えの予想はついている。それでも訊かずにはいられなかった。眼前に立つ兄はどこか頼りなげな雰囲気を漂わせながら、弱々しい声で告げる。
「あぁ。お前が予想する通り、俺はたくさん殺してきたよ。人も魔物も妖も、あの方の命令で」
あの方が誰を意味しているのか、もう霞は気付いている。信じたくはなかったけれど。
だから、彼女は笑った。今の自分にできる精一杯の笑顔。
「……そっか。ありがとう、兄さん。でも、もうあなた一人に咎は背負わせない。私も一緒に背負うよ」



––––あなたが地獄に堕ちていくというのなら、わたしも共に落ちよう。
決して独りにさせないと、誓うから。

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