それはきっと、番外編。

些稚絃羽

正直な気持ち(千果)

決意はしたものの踏ん切りがつかないまま、彼は遅めの夏休みに入った。そして早々に旅行へと出かけるらしい。彼からもコウからも、沙希ちゃんまでも一緒にどうかと誘ってくれたけれど断っておいた。行ってみたい気持ちもあったけど、折角仲間内で計画した旅行に混じるのは忍びない。その輪の中に私が入っても今更互いに気兼ねするような間柄でもないし、行けば確実に楽しいだろうとも思う。それでもこうした線引きは必要だ。彼等は会社でのチームで、私は小料理屋の女将。商売を抜きにして友達にはなれても、私は彼等の仲間にはなれない。

私が断ると、まるで告白をして振られたような切ない顔で「残念です」と呟くものだから、思わず情に絆されそうになったのはきっと仕方のないことだ。ペットショップでケージの向こうから連れて帰ってくれないのかと見つめられた時と同じ気持ちになる。
しかし何とか気持ちを立て直し、代わりに土産話を楽しみにしていると告げると、写真も沢山撮ってくると約束してくれた。けれどその後の一言が私に衝撃を与えた。

「旅行中は連絡、我慢しますね。……会いたくなっちゃうから」

何が衝撃か。ひとつには独り言のようにでもこうしたストレートな物言いをすることもあるのだと知ったこと。でもそれより大きかったのは、旅行中は連絡しないと聞かされて私の心が明らかに寂しがったことだった。
いつの間にこんなに好きになってしまっていたのだろう。会えない時間が……などと歌った歌があったが、会っている時以上に大切な時間があるかと思っていた。それなのにどういうことだろう。知らない内に私も“恋する乙女”なんてものになってしまったのか。なんて似合わない。どの口で寂しいだなんて言うつもりかと自身に対抗するように手で口元を抑えれば、体調が悪いのかと心配される始末。
……恋とはなんて、手に負えないじゃじゃ馬か。


*****


旅行は二泊三日と聞いていた。つまり今日中にこちらに戻ってくるのだろう。
彼は宣言通り旅行中に一度も連絡を寄越さなかった。これまでだって頻繁に連絡を取り合っていた訳でもないのだから普通のこと。旅行に行っているのにそちらに集中しないでどうするのか、と何やら落ち込んでいた自分の心を軽く叱咤する。
かと言ってこちらから、今帰っている頃ですか、などと気安く電話をするのも気が引ける。実際にかければ恐らくもの凄い勢いで出てくれて、声に喜びの色を滲ませてくれる筈だけど、それが分かるから尚更どんな反応をしていいのか分からなくて躊躇いが先に立つ。

……あんなに一直線に想われたことなどないからだ。直接的な「好き」という一言がなくてもその想いは十二分に伝わってくる。
人生で初めて自分の淡白さにショックを受けている。最近の中高生なら「声が聞きたくて」と電話するのもお手のものなのだろうと思うと、怖い気もするし羨ましい気もする。ただ、私が突然そんなことをし始めたら引かれてしまうだろうか。
珍しくメールという手段も一応考えた。けれどやはりすぐにやめてしまった。元々メールは苦手なのだ。文面から相手の気持ちを図るのは私にとって高度過ぎる。元より電話でさえどんな言葉で始めていいか迷うのに、メールなんてどうしたらいい? 気付けば時候の挨拶をしたためていたら、当然メール画面を閉じるだろう。

携帯を手にしては置いてを繰り返して。買い出しに行ったらキャベツとレタスを買い間違えた。こんな初歩的なミスをした自分が情けなく、しかし放っておけば最悪な味の料理を作ってしまいそうだと気を引き締めた。
旅行の最終日なんて疲れているに決まっている。明日の夕方にでも連絡を入れてみよう。土産話も鮮度が命ですよ、とでも言って夕飯を食べに来るよう誘えば自然に聞こえる筈。
そう思えば身体から余計な力が抜けていく感じがした。肩が信じられない程凝っていた。


平常心を取り戻したお蔭か、今日の料理はいつもより美味しくできた気がする。長い付き合いの常連さんが一品目で「また腕を上げたね」とお墨付きをくださったから間違いないだろう。
まだ人も疎らの六時過ぎ。戸が開く音がして包丁の手を止める。顔を上げ、いらっしゃいと声をかけると暖簾を分けて入ってきたのは、林田さんだった。
仕事後にスーツで来るのは当然だけれど、彼は休日でさえいつもジャケット着用でやって来る。スーツほど堅くはないもののカジュアルかと言うと微妙なところ。それが今日は、緩めの白いサマーニットにブルージーンズという出で立ちで、別人を見ているような気分になった。
「冷蔵庫に何も入ってなかったんで、来ちゃいました」
小さく舌を出した姿は年齢を考えれば溜息のひとつもつきたいところではあるけれど、この人がやると妙にしっくりきてしまうのだからどうしようもない。食べるものがないから来たと言われても不思議と嫌な気もしない。まさか向こうから出向いてくれるなんて、正直に言えばこの瞬間の私は柄にもなく舞い上がっていると思う。
「というのは嘘で。……少しでも早く会いたかったんで」
周囲の客に聞こえないよう小声で告げる彼に、曖昧に笑顔を返すことしかできなかった。向けられた表情は誰の目にも幸せそうに映るだろう。そしてその顔をさせているのが自分なのかと思うと、胸の奥がチリチリと焼けるような感覚がする。文字通りこれが、胸を焦がすというやつなのかもしれない。
感じが悪いと思われたかもしれない、すぐにそっぽを向いてしまったから。それが気になって鍋の中を確認しながらちらと目をやると、どういう訳かばっちりと目が合ってしまう。ずっと見られていたことに気が付くのはすぐで、どうにも動きがぎこちなくなる。とりあえず幾つか用意していた小鉢のひとつを出すと嬉しそうに受け取ってくれたため、その場から逃げることに成功した。


とはいえ、カウンターに陣取られては長く逃げていることも叶わない。戻ってくる度にひしひしと視線を感じ、考えすぎだと顔を上げればその通り、にっこりと微笑む顔と出会う。私が不自然では他のお客様に要らぬ探りを入れられそうだし、彼の相手を始めたら始めたで女将としての体裁が崩れてしまいそうな気もする。やりにくいことこの上ない。
完全にキャパオーバー、ギブアップだ。他の客を見送り、店内が彼一人になったのを見計らって暖簾を仕舞う。<本日貸し切り>の看板を出せば、これで周りの目を気にしなくて済む。出向いてくださったのに帰ることになるお客様に対しては申し訳ないが、個人の店というのはこういう時に本当に便利だ。
深い息を吐きながら戻ってきた私にその人は困ったような表情を浮かべる。
「今日予約入ってたんですね。驚いてもらえるかと思って突然来たの、失敗だったなぁ」
「……予約が入っていたら良かったんですけどねぇ」
「ん?」
「今日は何を召し上がられます? 閉店までは随分時間がありそうですねぇ」
「え、え?」
やっとのことで事態を理解した彼がまた、とろけるように顔を綻ばす。表情筋が柔軟なんだなと変に感心してしまった。
おすすめを何でも、という注文を受けて出来上がっているものから順に並べていく。それらを本当に美味しそうに頬張るのを見ながら、次の料理に取りかかる。目の前の彼に何を食べてもらおうかと考えながら作るのは、料理の真の楽しみのように思えた。

それから暫く彼の話を聞いた。男三人で露天風呂に入ったこと、お酒の呑み過ぎで恥ずかしい失敗をしたらしいこと、土産物屋の並ぶ街道で修学旅行生のようにはしゃいで竜胆さんに叱られたこと、久々に見た打ち上げ花火が予想以上に綺麗だったこと。見せてくれた写真の浴衣姿もよく似合っていた。
中でも可笑しかったのは、コウと竜胆さんの格好良さを彼が力説していることだ。私服姿や浴衣姿、ひいては裸の感想を聞かされる私はどうしたらいいのか。しかも全部言ってしまってから、俺だっていつかはああなるんですからね、と取り繕うのがまた笑いを誘う。ああなると言われてもどうなるつもりなのか。風呂上がりの上半身裸のコウなら見慣れているが、この人にあの身体はどうやっても似つかわしくない。やんわりと止めておいた。

折角こうして会えたのだから、次の約束を取り付けよう。そう思うのに口はそのようには動いてくれない。彼の話に相槌を打つ時間が続く。彼の方も膨大にあった土産話をすっかり話し終えてしまったらしい。話しすぎちゃいました、と恥ずかしそうに頭を掻いた。
「あぁ、でもどうせなら酒呑みながら話したかったな、電車で来れば良かった」
「なら呑まれます? いつもコウが使う部屋なら泊まれる準備はできてますよ」
「や、ややや、大丈夫です!」
壊れたおもちゃのように首を振る。遠慮することはないのだけどと思っていると、神妙な顔で見上げられた。
「あの、まさかとは思いますが、今みたいに男性のお客さんを泊まらせてあげたりとかしてないですよね?」
「まさか。常連の方は近場の方が多いですし」
「……そういうことではなくてですね」
分からない振りをした訳ではなかった。最初は本当に気付かなかったのだ。
普段はそんな提案をする筈がない。裏の家が我が家であることは隠してはいないし、実際泊まらせてくれと言われたこともあるが丁重にお断りしてきた。女である以上、異性を家に上げるということはそこに警戒が伴っていなくてはならない。
しかし彼が家に上がることに特別抵抗はなかった。別に何もされないと油断している訳でもないし、ましてどうなってもいいなどと思っているのでもない。勿論、彼のことは好きだ。でも物事には順序がある。すべてをすっ飛ばして既成事実、なんて問答無用、あり得ないと思っている。お堅い女、と思われようが知ったことではない。あるべき優先順位を付けられない人間など友人にするのも嫌なのだ。では何故彼を上げてもいいと思ったのか。自分でも上手く言葉にすることはできないが、多分今のこの状況を予想していたからかもしれない。
「あんまり不用意に泊まるかとか言っちゃ駄目です。前のデー……ディナーの時も家に上げてくれようとしましたよね、着替えを待つ間。ああいうのも駄目です。ああいうこと言って欲しくない、です」
彼はどこまでも誠実な人だ。
「それは、どうして?」
そして私はずるい。何も答えようとしないくせに、自分ばかり言葉を欲しがる。
「他の男にも言ってるのを想像しちゃうから。……嫉妬です」
まるで女の子のような答えに、どうしてだか男性的な部分を感じてしまう。大して知りもしないのに彼らしい、と思ってしまう。私はきっと、こんな答えが欲しかった。


今しかない、ふとそう思った。今ならさらりとデートに誘える気がする。
「それなら今度は電車で出掛けましょう。お互いの家の中間の駅で待ち合わせて、その近くのお酒が飲めるお店に。
 前ほど気取らないお店がいいかしら。居酒屋、は騒がしいし、でもレストランじゃ静かすぎて落ち着かないし」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
両手を思いきり伸ばして制止を促す彼に私は従順に従った。そういえば話し方を変えるのを忘れていたなと考える。それにしてもこの人は私の前では何やら焦ってばかりだ。
「えっと、それってつまり、俺の図々しい勘違いじゃなければ、デ、デートのお誘い、ですか?」
尋ねているのに、質問というよりは否定される前提でする伺いのように見える。眉も目尻も、口角まで下がっているからだろうか。
こんな顔を見ると悪戯心がざわめく。わざとらしく視線を下げた。
「”二度目”がなかなか来ないから」
「え」
「多分忘れられているんだろうって思って」
「え、いや、忘れてる訳ないじゃないですか! 一応機会とか見計らったりして、店選びも慎重にと思ったら時間がかかっちゃっただけで!」
言い訳のように言葉を駆け足で重ねる彼は嘘がつけない。隠そうとしていた部分まで全部告白してしまうものだから、不利な状況に自分を追い込んでいく。ある意味可哀想だとも思うけれど、分かりやすくてとてもいい。
だけど私も少し素直にもなってみたい。正直な気持ちを言った時、どんな顔をするのか見てみたい。表情の裏に潜むものを探るのではなく、純粋に色んな顔を知りたい。こんな風に思うのはいつ振りだろう。
「……私だって、寂しかったんですよ?」
今度はきちんと彼の目を見て声にした。そこで初めて自分の気持ちの確かさに気が付いた。そうして少し泣きたくなった。胸の奥に宿った感情が、いやに温かくて嬉しかったから。

合わせた視線はなかなか外れなかった。彼は呆けたようにこちらを見つめていたし、私も逸らさなかった。時折震える瞼に揺れる睫毛が愛おしかった。
やがて、我慢ならないと落とした瞬きを合図に、彼の顔がみるみる赤く染まる。優しい色。お酒でも呑んでいたなら、好きな色を”彼の頬”と答えたかもしれない。
そんなことを考える自分が可笑しくて、そんな自分が少し好きだ。

  

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