それはきっと、番外編。

些稚絃羽

何気ない特別(貴斗)

「雨、降っちゃいましたね……。」
電話口から聞こえる声は明らかに落胆していて、こんな時にやっぱり可愛いなんて柄にもなく思ってしまう俺はどうやら重症らしい。“恋の病”という言葉も強ち間違いじゃない様だ。
悲しい呟きを聞きながら窓の向こうに視線を移せば、大きな雨粒が階下へとスピードを上げて落ちていく。
マンションの7階から見える景色は白んで、今のところ明ける予定はなさそうだ。
「家、行って良いか?」
俺も雨の日には人恋しくなる生き物だったらしい。


俺の家から沙希の家に行くなら電車よりバスだ。どちらの家もバス停が近い。
こういう時、つまり彼女の所まで行く時なんかに車の必要性を感じる。立花さんと菅野が一緒に車で帰って行くのを見たりすると特に。
雨の日に送ってやれるのにとか、会社帰りに気軽に飯食いに行けるのにとか。そういう事を考えてしまうから本気で車を買うかどうかを思案中だ。相談してみるかな。
乗り込んだバスの座席は固く、座り心地が悪い。それでも身体を預けて、車窓に走る雨筋の向こうの忙しない街並みを眺めながら、今日の本来の約束を思い出してみる。

今日が晴れだったら、いや多分曇りだったとしても、ピクニックに行く予定だった。
ピクニックなんて言葉自体、悩んでも出て来ない程久しぶりに聞いた俺は沙希からそれを持ち掛けられた時、「ピクニック」について確認してしまった。
「ピクニックって、公園とかで弁当食べるのであってるよな?」なんて。
それを聞いた沙希は「子供っぽいって馬鹿にしてるんですね?」と眉をひくつかせながら睨んできた。その時はたまたま俺は座っていて沙希は立っていたからその睨みも多少は効いたけど、怖いというより初めて怒ったのを見た事への嬉しさの方が勝って思わず笑ってしまった。
笑顔で騙されたりしないんですから、って赤い顔で言っていたのは少し見惚れてくれたって思っても良いだろうか。……重症だな。

本当は今日楽しみにしていたんだ。大人になってピクニックをする機会なんてまずないから興味があったというのもある。でも何より沙希が俺とのデートを計画してくれた事が嬉しい。お袋と会った日以来、あの時みたいにまた誘ってくれるんじゃないかと思っていたのに1度もなかったからひとしおだ。
だけど雨になって。当然目的の公園に行く事は叶わなかった。
それなら一緒にいられるだけでいい。
さっきの電話で家に行って良いかと聞いたら、急いで片付けます!と慌てながらも了承してくれた。
「片付けなんか良いから。
 今日作る予定だった弁当、食いたい。」
そう言ったら暫くの沈黙の後、
「なら電話してる場合じゃないじゃないですか!!
 気を付けて来てください。それじゃまた後で!」
と切られてしまった。今頃用意の真っ最中だろうか。どんな様子で作っているんだろうかと想像したら、俺のために作ってるという事実がちらついて不覚にも1人照れてしまう。
ただ、電話してる場合じゃないっていうのは、少し寂しかった。……これは重症どころじゃないか。



軽いインターホンの音が響くと、奥から快活な返事が聞こえた。
「いらっしゃいませ!」
「お邪魔します。」
店員みたいな挨拶で出迎えてくれた沙希はエプロン姿。トレードマークの大きな団子はなく後ろで括っているだけだから、ちょこまかとキッチンへと戻って行く背中に長い髪が揺れている。
リビングに入ると、
「もうお昼来ますけど、すぐ食べます?」
と、対面式になっているキッチンから沙希が問う。
「あぁ。食う。」
平然とした振りをして上着を脱いでソファに深く腰掛ける。
結婚したらこんな感じなんだろうかって、嫌でも考えてしまう。何か俺ばかり前に前に進んで行きたがっている気がして、悟られない様に何も考えていない振りをする。最近そんな事ばかりだ。

テーブルには弁当の定番のおかずが並ぶ。しかし2人で食べるには1品の量が些か多すぎないか?
「えっと、ちょっと作り過ぎましてね。へへへ。」
俺の表情で言いたい事が分かったらしく誤魔化すように笑う。少ないよりは多い方が良いけど、ここまでとなると相当手間がかかっただろう。
「こんなに作らなくても良かったのに。大変だったろ?」
「いえいえ、全然!ささ、食べてくださいよ。」
促されて唐揚げを1つ口に運ぶ。衣が小気味いい音を立てるとジュワッと肉汁が出てくる。お手製のたれに付け込んでいるらしく中までよく味が染みているのが分かった。
「美味い。」
「……良かったぁー。どんどん食べてくださいね!」
沙希も隣に座って、一緒に食べ始める。このおかずのポイントはとか、隠し味は何か分かるかとか、これはお母さんの味なんだとか、そんな話をしながらの昼食。
会社の食堂や店で隣り合って食べるのとは訳が違う。
沙希の家で沙希の手料理を並んで食べる、この心理的な近さがとても居心地が良かった。


「俺、車買おうかと思うんだけど、どう思う?」
片付けを終えてコーヒーを飲みながら一息ついている時に、相談を持ち掛けた。かなりアバウトな投げ掛けだけど、良いと思うと言われたらすぐにでも探そうと思っている。
「車ですか?やけに突然ですね。」
「いや、本当はずっと考えてた。車があればいつでも一緒に
 出掛けやすいし、何かあってもすぐ飛んで来れる。」
隠す程の事でもないから正直に話す。目を合わせた沙希は驚いた様に目を見張り、それから恥ずかしそうに逸らしてしまう。
「えと、そう言ってもらえて嬉しいです。車良いですね。」
「じゃ、」
「でも。」
じゃ買うと言いかけたところで遮られる。何か問題でもあるのか?
「それだともう、電車通勤しないって事ですよね?」

俺達は以前から電車通勤をしている。乗る線は同じで最寄り駅は2つ、俺の方が遠い。
付き合いだしてからは同じ便に乗る様にしている。少しでも長く一緒にいたいから。
だけど車通勤になれば沙希を迎えにも行ける。それなら電車でも車でも同じじゃないか?
「朝、迎えに来るけど。」
「あー、そういう事じゃなくて。笑わないでくださいね?
 私ずっと憧れだったんです。彼氏との電車通学。」
「え?」
通勤じゃなくて、通学?
「ほら、よく電車で高校生のカップル見かけますよね?
 少女漫画とかでもよくあるシチュエーションですし。
 ああやって彼氏と電車通学してみたいって、高校の頃から
 思ってて。実家から高校まで徒歩5分だったから余計に。
 結局一度もできなかった事を今……貴斗としているような
 気になってて、それが楽しいんです、よね。
 だからそれがなくなるのはちょっと寂しいかなって。」

その頃の願いを俺が叶えた事の嬉しさ。毎朝俺が思っている様に、沙希もその時間を楽しんでくれていた事への喜びと安堵。
それを感じたから、やめる事でがっかりさせたくはなくて。
「じゃ、まだ当分電車通勤する。」
「良いんですか?」
「まぁ、すぐに車なくても電車とバスで何とかなるから。」
そう言ってから考える。出掛ける分にはいいけど。
「沙希、オートロックのとこに引っ越した方が良い。」
「え、突然何ですか?」
「ここ、防犯面で無防備すぎる。もし何かあった時すぐに
 来てやれないし、せめてもう少し、」
「大丈夫ですよ!!」
提案を続けようとすると止められてしまった。そんなにこの家に思い入れがあるのだろうか。
「ここじゃないといけないのか?」
「いや、別にそういう訳じゃないですけど。
 他の部屋の方達と仲良くさせてもらってるんで、防犯面は
 バッチリ大丈夫ですから。」
「でもこのアパート、女性が多いんだろう?」
前に言っていた。女性ばかりで引っ越してすぐに打ち解けて、今では女子会をする位仲が良いと。それなら男が来た時、誰がどう対処できるって言うんだ。
「それも大丈夫です。お隣さんはプロボクサーの方ですし、
 下の階には空手の師範もいますから。」
「……それなら、安心だな。」
ここはかなり防犯性の高いアパートだったらしい。


「またいつか、絶対ピクニックしましょうね!」
「良いけど、そんなに好きなのか?」
今日できなかったから果たしたいという気持ちは分からなくもないけど。
「ピクニックが好きというか。
 いつもと同じ様な1日だって特別に思えるから。
 だからただ、一緒にのんびりしたいなぁ、と。」
今だって雨の日の特別ですけどね?と笑って言うから、ひたすらに愛おしいと思った。



月曜日。心地の良い快晴。
いつもの時間、いつもの電車、いつもと同じ2両目に乗り込む。
いつもと同じ様に席は空いていなくて、扉の脇に陣取る。あと2駅で、彼女の待つ駅。
いつもより少しだけ浮ついた気持ちで、彼女の事だけを考える。
いつもより早く進んでいる様な気がして、それでも早く早くと心の中で急かす。
2度目のブレーキがかかって、もうすぐ彼女が見える。もうすぐ。見えた。
いつもと同じ音と共に扉が開き、今日も照れくさそうな顔で乗り込んでくる。
「おはよう。」
「おはようございます。」
いつもと同じ様に向かい合い、挨拶を交わす。目の端で扉が閉まった。
ゆっくりとしたスピードで走り出し、徐々に加速していく。俺の鼓動も。

いつもはこんな事しないけど。
今俺が高校生なら、恥ずかしげもなく、周りの目なんか気にせずに、彼女を想うままに行動する筈だから。
いつもと同じ様な何気ないこの瞬間でさえ特別だから。

外を眺めている彼女の左手を取る。驚いた彼女がこちらを見上げる。
そっと耳に口を寄せて、彼女にだけ聞こえる声で呟いてみる。
―沙希、好きだ。

 

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