それはきっと、番外編。

些稚絃羽

真実の先(貴斗)

大人げない、とは思っている。
俺の方が年上なんだし、多少の事は許してやるくらいの器の大きさがないといけないのは分かってる。
だけど、自分の彼女が知らない男からのキスを受け入れているところを見て、それでも平然としてろって言うのか。

***

珍しく土曜は予定があると言う沙希。別にそれはどうって事ない。たまには友達と会う時間だって欲しいだろう。毎度、どこにいるか何をしているかなんて聞く程、野暮じゃない。
丸々空いた予定に、何をしようか考える。でも考えても考えても沙希が喜びそうな事ばかり浮かんで、たった1回デートができないだけの事なのに、一人でいる事の寂しさを感じた。
結局何も思い浮かばず、ジムに行く事にする。これまでだって、暇な時は大抵ジムに行って汗を流すのが常だった。沙希と付き合いだしてからは、暇だと思う事なんてなかったけれど。

駅前にあるこのジムは高校の時からよく来ていた。というのも同じ野球部だった友達の親が経営しているジムだったから。今ではその友達、千田佑せんだたすくが経営している。
「あ、貴斗。久々だな。」
「おう。今日何か空いてないか?」
「お前それ言うなよ。常連さんが皆見計らったみたいに
 風邪引いてんの。鍛えてんのに何で引くかな?」
「夏風邪は長引くぞ。」
「だよなー。お前も気を付けろよ。」
「お前もな。」
度々ちょっかいを出しに来る佑と軽口を叩きながらいつも通りのメニューをこなす。今更変えると気持ちが悪い。流れる汗を拭いながら、やっぱり体を動かすのが好きだなと改めて感じた。

「そういやさ。」
「何だ。」
まだ3時だというのに、いつの間にか客が俺1人になっている。退屈した佑が俺の隣で同じ様にエアロバイクを漕ぎ出した。
「彼女とどうなの?」
「どうって?」
「だから、上手くいってんのかなって。」
「あぁ。」
「……あぁ、だけかよ!もっと具体的な何かないのか。」
「教えたくない。」
「こいつ……。」
隣で頭を抱えたのは無視する事にする。どうして沙希との事を人に話さないといけないんだ。2人の事は2人の秘密だろう。
「お前、結構独占欲強いのな。」
「相手がお前だと余計にな。」
「何だよ。人を軽い奴みたいに言うなよ。」
「実際そうだろう?」
「俺だってな!俺だって、さ、変わったんだぞー。」
そう言いながら項垂れる佑。何かあったのだろうか。

佑は高校、大学と同じ学校に通っていた。学生の間はかなり派手に遊んでいた。とは言っても彼女を作らず色んな女性とデートする程度の可愛いものだけど。
このジムの経営を引き継いでからは真面目に過ごしていると本人は言っている。こいつの事だから多分ちゃんとしてるんだと思うが。

「俺な、彼女できたんだよ。3ヶ月位前からかな。」
「良かったな。」
「いや、それが先日破局。」
「何で。」
「彼女に浮気された。というか俺が浮気相手だったらしい。
 はぁ、好きだったのになぁ。何でだよ……。」
こういう時、気の利いた言葉が見つからない。沙希が泣いた時だってどうしていいか分からないが、佑の涙も厄介だ。何て言えば励ませるのか、言葉が浮かんで来ない。
だからただ、スポーツドリンクの入ったペットボトルを差し出した。
「何?」
「水分が抜けたら、ちゃんと入れとけ。」
「そりゃ涙は水分だけど。全然上手くねぇな。」
「うるせ。」
それでも少し頬が綻んだのを見てほっとした。どうも俺は、身近な人の涙には弱いらしい。

「貴斗も気を付けろよ。彼女に浮気されないようにな。」
「はいはい。」
「おい、俺の忠告聞かないとお前いつも失敗してただろ!」
「俺だって変わったんだよ。じゃあな。」
帰り際、脅す様に忠告してくるから、言ってやった。俺だっていつまでも人に頼ってばかりのやわじゃない。ちゃんと自分の決めた様に進んでやる。

ジムから家までは歩いて15分。少し入り組んだ中道を通って帰る事になる。最後にこの道を歩いたのも随分前だ。ゆっくり帰ろう。
この辺り一帯は会社や工場なんかが集まっている。表の大通りに比べれば車の騒音は無いが、稼働中の工場の機械音が時折響く。
俺を追い越した野良猫の行く先で、1台のタクシーがハザードを点滅させる。車通りの少ない中道で停まっているタクシーに、珍しい事は続くものだなと思った。
「気を付けろよ。」
「大丈夫だよ。」
タクシーに近付くと微かに聞こえる男女の声。仲睦まじそうな会話に、沙希は今頃何をしているかなと考える。
「あ、サキ、待って。」
同じ名前が聞こえてきて、無粋だと分かっていながら反射的に顔を向けた。タクシーの向こう、何かの施設の前で、抱き合う男女。男が女の肩に乗せた頭を上げて微笑むと、女の顔が見えた。

「沙、希……。」
同じ名前の違う人ではなく、紛れもなく沙希だった。嫌がる様子もなく驚く程自然に抱き締められていた。
そして男はそのまま、覆い被さるように沙希の頬にキスをした。沙希はそれすら当たり前の様に受け止めている。
「じゃあね。」
腕が解かれ、気味が悪い程に優しく微笑み手を振る男に沙希は手を振り返し、こちらへと歩き始めた。俺は近くの建物の影に隠れる。沙希を乗せたタクシーが動き出し、角を曲がって、やがて見えなくなった。

***

本当はそこに立ったままでいれば良かった。そして沙希にあの男は誰だと問えば良かった。この時に本当の事を俺が聞けば良かったんだ。
だけど。佑の浮気という言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。沙希はそんな事しないと思う半面、もしかしたらがちらつく。

あの後、気付けば家に辿り着いていて、自分が相当参っている事に気が付いた。そしてどうしたらいいのかと頭を悩ませ始めた頃、携帯が鳴った。沙希からだった。
<今日は予定変えちゃってごめんね。貴斗は何してた?>
最近敬語の抜けてきたメールの文が、心を虚しくさせる。どんな言葉も返せなかった。彼女を責めて、ひどく傷付けてしまいそうだったから。

それから、沙希が俺の言いたい事に気付くまでは距離を取ろうと思った。かかってきた電話も取らず、電車も1本早く乗った。会社で俺は一切近付かない。沙希は何度も話し掛けてきたが、どれもあの男に関わるものじゃなかった。俺の様子に戸惑うばかりで、本当に思い至らない様だ。
答えず目も合わせない俺の視界から、ゆっくり消える足。それを合図に目を上げると、小さな背中が遠のいて行く。本当にいつかこうやって別れる時が来る様な、そんな気がして寂しさが募る。自分で決めた事なのに今にも破ってしまいそうで、拳を握りその背中をただ見つめていた。

「竜胆、ちょっといいか?」
昼休み、帰ってきた立花さんに声を掛けられる。返事をすると、
「お前、土曜はどこにいた?」
と問われる。意図が分からず戸惑ったのと、土曜と聞いてあの時の映像が鮮明に浮かび上がってきた所為で、一瞬言葉に詰まった。顔の皮膚が引き攣る。
「……ジムに。」
「駅前のだよな。」
「そうですけど。」
そうか、と溜息混じりに呟かれて益々訳が分からない。
「竜胆、金城をもっと信じてやれ。俺が言える事じゃない
 かもしれないけど。あいつ、泣いてるぞ。」
そう聞かされて、だけどどうしようもない。俺はこうすると決めて、沙希からの真実を待っている。今更なかった事にできる程、俺って人間はできてない。
「本当頑固だよな。どんな意図があるのかしらないけど、
 あいつの事、泣かせないでやってくれ。」
それだけ言って、立花さんは給湯室へ消えていく。
俺だって泣かせたくてこんな事している訳じゃない。女々しいって分かっているけど、ただ分かって欲しくて。
分かって、欲しいんだ。


終業と同時に片付けを始めて、挨拶もそこそこにブースを出て行く。直前、沙希の焦った顔が視界に入る。でも気付かない振りをしてドアから手を離した。
立花さんの言葉で、きっと沙希から何か聞いたんだろうと思った。だから多分今日、俺を追いかけてくる。
どのブースからも人が出てくる様子はない。
ボタンを押すと見計らった様な速さで、無人のエレベーターがやって来る。そこに1人乗り込んで「開く」のボタンを押し続けた。

誰も乗って来るな。沙希、早く。早く追いかけてきて。まだ俺達は終わってないって証明して。沙希にとっても俺だけだって言って。そう言って、笑って。

時間は分からない。だけど長くて、もう俺達は終わりだって突きつけられた気がした。
そうか、そうなのか。……今まで、ありがとう。

「乗りまーす!」

その声に弾かれる様に、降ろした手をボタンに戻す。パタパタと靴音が聞こえて、見慣れた団子頭が入ってくる。息を切らしながら、俺と気付かず礼を言う。
振り返りたいけど、まだだめだ。俺が葛藤している間に、沙希が俺に気付き戸惑った声を出す。
俺だよ。待ってたんだ。沙希を待ってた。好きなんだよ。どうしようもなく好きなんだ。
ノンストップで1階まで降りる間、沙希は一言も言葉を発さない。何か言ってくれよ。

エレベーターが静かに1階に降り立ち、扉が開く。本当は振り返って手を引きたい。勝手に動き出した身体を無理やり前に進める。
入口まで歩きながら、心の中で彼女に問う。
俺と付き合っている事、本当は恥ずかしかった?デートしている時もよく俺の後ろに隠れていた。名前だって小さくしか呼ばなかった。俺といながら、あの男の事を考える時があった?あいつと、何度キスをした?

汚い感情からは負しか生まれなくて、心の中でさえ沙希を傷付ける。何でだ。こんな風になりたかった訳じゃないのに。
ガラス戸を押し開けて外に出ると、浮ついた熱がこびり付く。その気持ち悪さに顔を顰めつつ歩き始めたが、すぐに動けなくなった。
あいつが。沙希と抱き合っていたあの男が、街路樹の脇に立っている。
本当にもう、終わり?

「貴斗!」
張り上げるような声に振り返る。いつだって控えめにしか呼ばない沙希が、会社の前で俺の名前を呼んでくれた。驚きと嬉しさが一緒にやって来て、一瞬後ろの男の存在を忘れた。
「沙希~!」
あの時聞いたのと同じ声が気安く呼ぶ。俺の身体で見えなかったらしい沙希が視線を移すと、今までに見た事のない形相で睨みつけて叫んだ。

「こんなところで何やってるの、お兄ちゃん!!」

「お、兄ちゃん……?」
想像していなかった言葉に唖然とする。固まる俺の隣を過ぎて、男の、兄の元に駆け寄る沙希。
「沙希、何を怒ってるんだ?」
「本当にお兄ちゃんは空気読めないよね!大事な時に限って
 私の邪魔をするんだから!さっさとアメリカ帰ってよ!」
「おいおい、ひどいな~。」
沙希はすごい剣幕で、今にも掴みかかりそうな位に兄に詰め寄っている。どうしたものかと見ていると、兄は堪えていないらしく、そのまま沙希を抱き締めた。
「会ったらまず挨拶だって何度言ったら分かるのかな。」
そして、沙希の頬にキスをした。いや実際は、挨拶のキス。唇は触れていなかった。それなら、あの時も。

身体から力が抜けて、情けなくしゃがみ込む。
俺は馬鹿だ。勝手に勘違いして無視する様な真似までして、実際はどうだ?兄じゃないか。
以前沙希がお袋の事を勘違いした事があったけど、あんな可愛いもんじゃない。泣かせる程に沙希に苦しい思いをさせた。何やってんだ。
「貴斗、大丈夫?!」
突然しゃがんだ俺を心配して、沙希が駆け寄って来てくれた。久しく合っていなかった視線が交わる。眉を下げて心配そうな顔が目の前にある。
沙希がこちらに伸ばしかけた手を触れる直前で引っ込めた。俺の、所為だよな。
俺はその手を掴む。びくりと手が揺れた。

「ごめん。泣かせてごめん。」
もっと具体的にちゃんと謝りたいのに、言葉が出てこない。同じ様にしゃがみ込んでいる沙希の肩に軽く頭を預ける。体温が伝わってきて、泣きそうだ。
沙希の手が俺の手から抜け出る。それに気付いた時には、強く抱き締められていた。
「良かった……。貴斗がいないと、もうだめなの。」
愛しさを包む様に、俺も腕を回した。優しく、でも逃げてしまわない様にしっかりと。そんな事しなくても良いって分かっていても、そうせずにはいられなかった。


「おーい。僕の存在忘れてない?」
投げ掛けられた声に我に返る。通行人がちらちらとこちらを見ながら歩き去って行く。沙希のお兄さんは呆れた様な顔で腕を組んで、立っていた。
俺は慌てて沙希と共に立ち上がる。
「で、人の往来の激しい所で愛しい妹と抱き合う君は一体
 どなたかな?」
穏やかな口調とは裏腹に眉が気難しそうに痙攣している。よく考えたら初めて沙希の家族に会ったな。
「ご挨拶が遅れました。私、沙希さんとお付き合いさせて
 頂いております竜胆貴斗と申します。」
「どうも、兄のせいです。」
一応名刺交換をしたものの、成さんは俺の名刺を一瞥もせず仕舞い込む。そして高圧的な目をして俺を睨んでくる
「それで、誰が沙希と付き合って良いと言ったんだい?」
「はい?」
いまいち意味が分からなかった。兄の許可が必要なのだろうか。かなりのシスコンらしい。

「お兄ちゃん!!いい加減にしてよ!!私もう26なの。
 何でもお兄ちゃんに決められる歳はとっくに過ぎた。」
「いつまでも妹には変わりないだろう?」
「1つしか違わないくせに。貴斗の方が年上なんだから、
 ちゃんと敬語使ってくれる?」
「僕は彼を敬ってないから敬語は使えないよ。」
「そういう問題じゃないって言ってんの!!」
兄妹喧嘩が勃発する。うちも兄弟3人いるが喧嘩をした事がない。だから仲裁の仕方が分からない。板挟み状態で見守る事しかできそうにない。
「いつまでも僕の歳は追い越せないんだから、勝手に大人に
 なろうとしてもだめだよ。」
兄とはいえ、沙希が可哀想になってくる。沙希は俯いてしまった。何とかして沙希を守りたい。ここで俺が守らなくてどうするんだ。
「あの、」
「……くせに。」
話そうと口を開いたと同時に、沙希の方からも微かに声が聞こえた。

「心配して引き止めた妹を無視して勝手にアメリカに行った
 奴が偉そうに言ってんな!!」
「うっ!」
「貴斗はあんたなんかと比べ物にならない位素敵な人よ!
 さっさとアメリカでも南極でも行っちまえ!」
「……沙希、それは流石に言い過ぎなんじゃ、」
「寂しかったのに。行かないでって言ったのに。」

荒れた様に言葉を吐いてはいても、やっぱり大切な兄だからこそいなくて寂しい思いをしたのだと、潤む声が切なかった。
大切に思う余り、選択を間違う事があって。だけどそれは言葉にしなくては伝わらないんだと、今更改めて気付かされた。
「じゃ、僕は帰るかな。」
「え?」
この人なら抱き締める事位はしそうだと思ったのに、声を掛ける事もなく立ち去ろうとしている。沙希も俯いたまま呼び止める様としない。
俺は歩き出した背中に呼び掛けた。
「沙希さんの事、幸せにしますから!」
在り来たりでも今出せる精一杯の言葉。それに彼は顔だけ振り向いて応える。

「言っとくけど、年上だからって敬語なんか使わないから。
 ……いずれは弟になるんだろう?」

そう言い残して彼は歩き出し、待たせていたらしいタクシーに乗り込んで去って行った。
「良かったのか?あれだけで。」
「良いの。1年前に帰ってきた時に散々言ったから。」
「そうか。」
彼も不器用にしか愛せないのかもしれないな。
<いずれは弟になるんだろう?>
認めてもらえたって思っても良いんだろうか。いや、きっとそうなんだろうな。

「沙希。」
「はい?」
「本当にごめん。……今からデートしないか?」
「デート?」
「話したい事が沢山あるから。」
「うん!」
嬉しそうに笑って俺の手を引く沙希を本当に大切にすると、見えなくなった後ろ姿に誓った。




「もしもし。どした?」
「お前の所為だからな。」
「え、何が?」
「もう佑の言葉には絶対頼らないって決めたから。」
「いや、意味が、」
「じゃあな。」

「何の電話だよ、これ……。」

 

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