それはきっと、番外編。

些稚絃羽

奇跡的な確率(幸多)

妙に、そわそわする。理由は分かってるけど。
だってこれって、何か家族に彼女を紹介するみたいな感じだろ。いや、もう2回も会ってる訳だし、今更紹介とかそういうのじゃないんだけど。入口入った瞬間、バレそうな気がして何かな。あ、でも報告に行くんだから気付いてもらった方が早いか……?
「俺、だめだ……。」
「大丈夫ですか?」
助手席で彼女が心配そうに尋ねてくる。恋人になってもう3ヶ月が過ぎた。もう桜が見頃の季節だ。
カフェをオープンしてからの方が益々忙しくなってしまって、というよりすぐに行けるからという安心感からあの人への報告をかなり先延ばしにしてしまった。
多分彼女が言ってくれなかったら、もっと暑い時期になっていたかもしれない。突然できた休みに感謝しなくては。
「何か、すごい緊張してる。相手はマスターなのに。」
「ふふ。私も緊張してます。……これまでとは、違いますから。」
真っ直ぐ前を見る彼女の横顔が、とても心強かった。


baby´s breathに到着した俺達が意を決してドアを開くと、カランカランと弾ける鐘の音に合わせる様に楽しそうに笑うマスターと目が合った。店内は甘い女性の歌声が優しく響いている。少し早い時間だからか客は1人もいなかった。
「いらっしゃい。」
「こんにちは。」
「何で笑ってんの?」
「いや、窓から見えた2人の顔がやけに緊張していたからさ。」
そう言ってくつくつと笑っている。物静かなマスターにしては珍しく声を上げて笑っている。折角ドアの前で顔作ったのに、意味無しかよ。
「まぁ、座りなさい。とりあえずコーヒーとモカで良いかな?」
「……うん。」
「はい。お願いします。」
示し合わせるまでもなく、一番奥の席に向かう。まだ3度目だけど、彼女にとってもここが定位置になっているのが嬉しかった。
「何も隠せませんね。」
「厄介な人だよ。」
楽しそうに笑うから、些細な不満なんてすぐにどこかに飛んで行ってしまう。

窓の外に視線を移す彼女の横顔を見つめてみた。大きな瞳に光が反射して光って見える。キメの細かい白い肌にピンク色した唇が映えて、綺麗だと思った。
志方社長のご両親、誠さんと美代子さんに会いに行ったのはもう1ヶ月以上前になる。
その時の事を思い出すといつも一番に考えるのは、涙を流しながら手を握って応えてくれた事。必死に俺の手を握る彼女の手は冷たくて、でも熱くて。その熱量に浮かされそうになった。
海辺のレストランでの告白も息が詰まりそうなくらい胸が苦しくなった。
本当はどこかでずっと心配だったのかもしれない。好きになってほしいって必死で、知ってほしいってエゴだけで重たい話を聞かせて。泣くのを堪えて笑ってくれた彼女の優しさを利用している様な、そんな気がして。
でもそれを彼女は払拭してくれた。あの時には始まっていた、と。俺だから好きなんだと答えてくれた。俺自身が彼女だから好きな様に、彼女もそうなんだと教えてくれた。その愛情の深さに思わず泣きそうになった。
……そうやって何度もあの日の事を思い出しては感動するのに、最後に強烈な程に思い出すのは。
――おや、少しくらい恥ずかしがってくれたらいいのに。
   ほら、彼女みたいに。
誠さんの声を受けて覗き込んだ彼女の顔。マフラーに埋もれた赤らんだ横顔が控えめにこちらを向いて、伺う様に上目遣いにこちらを見る彼女の姿。
あの時、自分の顔に熱が集まるのが分かった。思い出すだけでも心拍数が上がる。ガキか、俺は。
……でも本当に、どうしようもないくらい、可愛かった……。

コーヒーの香りを纏いながら、マスターがゆっくりとこちらにやって来る気配がする。表情を引き締め直した。
「お待たせ致しました。」
「何だよ、急に畏まって。」
「今日の2人は特に大切なお客様だからね。」
マスターはそれぞれの前にカップを置くと、隣のテーブルの一席に腰掛けた。
「ん?座ってて良いの?」
「あぁ、そうか。知らなかったか。金曜は2時からの営業
 なんだ。妻の見舞いに行く日にしているからね。」
「え、そうなら言ってくれたら良かったのに。」
マスターの奥さんの心臓の病気はかなり重いもので、負担になるからと夫であるマスターでさえ面会を制限されている事だけは知っている。今日がその日だと知っていたら見舞いの時間を削らせたりしなかったのに。無理を言ってしまった様で申し訳なくなる。
「気を遣わなくて大丈夫だよ。朝一で行ってきたからね。
 それに君達が来る事を伝えたら追い出されてしまったよ。
 早く帰ってしっかりもてなしてあげなさい、ってね。」
まだ会った事はないけれど、マスターと同じ様に愛情深く温かい人なんだろうと思う。この喫茶店がいるだけで安らげる場所なのは、ここが奥さんの思いが沢山詰まった場所だからだろう。その思いをマスターが確かに引き継いでいるんだ。
「いつか、お見舞いに行っても良いですか?」
彼女の言葉にマスターが少し目を見開くのが分かった。それでもすぐに優しく破顔して、
「喜びます。」
と応えた。瞳が揺れていたのはきっと、気のせいじゃない。


「それで、今日は何のご報告に来たのかな?」
「……分かってる癖に。」
「勿論。でもちゃんと言葉にして聞きたいんだよ。」
そう言われて、静まっていた緊張がぶり返す。こういう時何て言うのが正解なんだろう。俺が顔を顰めるのとは対照的に、マスターはやたらと嬉しそうに微笑んでいるからむず痒くなって更にどうしていいか分からなくなる。仕事ならもっと冷静に、臨機応変に対応できるのに。
ちらと視線を移したら、目が合った彼女は一つ笑みを零して真っ直ぐな眼差しでマスターを見つめた。
「―― 一緒に歩くと決めました。」
凛とした声が流れるメロディーに染み込んでいく。マスターは柔和な笑みで小さく頷く。
2人の間に俺の知らない会話がなされていたのだと気付いた。もうマスターに嫉妬するなんて醜い事はしないけど、大切なところを持って行かれた気がして情けなくなる。
「ごめんなさい。これだけは私から言いたかったんです。」
「……いや、良いんだ。昨日あんなに考えてたのに。
 いざとなったら何て言ったら良いのか分からなくて。」
気付けば眉を下げて俺を見ていた彼女に、首を振って答える。
彼女は頼もしい。いつだって俺のだめな所をサポートしてくれる。でも男として格好付けたい気持ちもあって。そんなプライドみたいなやつが彼女を謝らせてしまう。
「ありがとう。」
だからそんな時、礼を言うって決めている。彼女には誠実に言葉を出すそのままの人でいてほしいから。
そうすると必ず、彼女は本当に嬉しそうに笑うんだ。

「生涯愛せる人に出会うというのは、奇跡だ。」
マスターが呟く様に言葉を落とす。遠くどこかを見つめて、それから微笑む。
「妻が昔からよく言っているんだ。
 人生の内でたった一人、生涯を通して愛せる人に出会える
 という事はとてつもない奇跡なんだろう。
 そしてその人と想い合えるのはどれ程素晴らしい事かと。
 本当にそう思うよ。」
母さんの事を思い出す。父さんが死んでからもずっと父さんの事を大切に思っていた。そんな母さんを見て俺は父さんを目標にできた。2人が出会って、俺が生まれて、そして彼女と出会い想いを通わせた奇跡は計り知れない。途方もない確率の1になれた喜びは100にも1000にもなって返ってくる。
そんなかけがえのない幸せを噛み締めて、父さんと母さんに深く深く感謝した。
「……立花さんが私を見つけてくれなかったら、一生こんな
 気持ちに気付かなかったかもしれないと思うんです。」
「菅野……。」
実直な言葉と真剣な眼差しで、マスターに伝える彼女。それが本当に父親に対して話す様で、何だか誇らしくてどこかむず痒かった。
「誰かを本当に大切に思う日なんて来ないと思ってた。
 でもどんな私も受け入れてくれる立花さんが隣にいて。」
俺が彼女を受け入れる気持ちは全て「好き」に集約されていて、それを重く受け止める必要なんてないのに、といつも思う。彼女は自分で思っている様なひどい人間じゃないのだと伝えたい気持ちも沢山あるけど、でも彼女が好きで好きで堪らない俺は。
結局一緒にいたいっていうそれだけの自分勝手な理由で、君といるんだよ。
「貰った言葉の分、与えられた優しさの分、幸せの分。
 この人を私が、幸せにしたいと心から思いました。
 だから、だから、あ……。」
そうして彼女はふと動きを止めてから自分の言葉を今理解して、自分を見つめる俺の視線に気が付いて。音が出そうな程一気に顔を赤く染めた。だから、の続きは聞けなかった。

「あの、ごめんなさい。お、お手洗いお借りします!」
「カウンターの奥ですよ。」
礼を言って彼女はその場を後にした。更に赤くなる頬を隠す様にして。その背を見つめて本当に良い子だね、と呟いていたマスターが俺に向き直り、
「それで、いつまで苗字で呼んでいるんだい?」
と、純粋な疑問といった風に尋ねてくる。俺を覆っていた甘い空気が即座に消えて、今度は俺が慌てる番だ。
「え、いや。」
「てっきりすぐにでも名前を呼んでいるものだと思ったら。
 意外と奥手だったんだなぁ。」
口篭る俺にそんな言葉を投げてくる。それで俺は、恥ずかしくて誰にも言えなかった事をこの際打ち明けてしまおうと口を開いた。
「……他の人なら大丈夫なんだけど、菅野だけは何でか
 呼べないっていうか。彼女なんだし呼びたいけどさ。
 まぁ、向こうも何も言って来ないし。」
竜胆と金城が互いを名前で呼び始めたのもあるかもしれない。俺だってずっと“湖陽”って呼びたいし呼んでほしい気持ちはあったけど。いざ目の前の彼女にそう呼び掛けようとしたら、喉に引っかかるみたいにどうしても呼べなくなる。彼女に呼ばれるというのも多分上手く返事ができない自信がある。……俺、意外と奥手だったんだ。
そんな話をするとマスターは笑う。
「まぁ、ここから恋ってものをしたらいいじゃないか。
 これから楽しみだな。」
彼女への想いが深まる度、やっぱり今までの恋愛は恋愛じゃなかったのかもしれないと思わされる。名前を呼ぶ事や見つめられる事くらいでこんなに心を揺さぶられたりする事はなかった。目の前の事が大事だったし、相手もそうだろうと思い込んでいた。
だけど彼女に出会って、何よりも彼女の事を優先させたいと思ってしまう。彼女の望みを叶えてあげたくなる。名前すら大切すぎて、簡単に呼べなくなる。
不思議なくらい込み上げるそんな想いに、もう身を委ねてしまおうか。
「楽しそうですね。」
戻って来た彼女がそう言う。誤魔化そうとする俺を遮る様に、
「どれだけ貴女を好きなのか聞いていたところですよ。」
とマスターが含み笑いで言った。嘘ではないけれどそんな風に言われて俺自身戸惑うぞ。
「……じゃ、私も言った方が良いですかね?」
「ちょ、もういいから!」
彼女は意外と変なところで対抗意識を燃やすタイプだ。


そんな事をしていたらもうすぐ開店の時間になってしまった。マスターはもっといてもいいのにと言ってくれるけど、お客さんの邪魔はしたくない。
「また来ます。近い内に。」
ドアを開いた俺の後ろ、鐘の音の向こうでそんな声が聞こえた。振り返ってみると、マスターは優しい顔で、
「いつでも。もうここは、貴女の家でもあるのだから。」
と彼女に告げ、俺を見て笑みを深くした。
「……はい!」
背中越しで表情は見えない。けれどはっきりとしたその声に、俺は心を震わせた。
開いたドアに背中を預け見上げた空は、晴れ渡って眩しかった。

 

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