それはきっと、番外編。

些稚絃羽

予想外な反応(幸多)

「沙希、昨日出してたファイルは?」
「ん?えっと、これです?」
「あぁ、サンキュ。」
「あ。た、貴斗。今日はお昼どうします?」
「そうだな。……立花さん、どうしました?」
急に話し掛けられて、思わず肩が大きく跳ねる。
「え、いや、何も。」
誤魔化しきれない動揺を無かった事にしようと、手元の資料を意味もなく凝視する。文字を追っても一文字も頭に入らない。心臓がバクバクと音を立てていた。


俺がこんな事になっているのはマスターのせいだ。
店に報告に行った日、いつまで苗字で呼んでいるんだ、なんて言うから。だから何か、焦ってる。
俺達には俺達のペースがあると思うし、比べたって仕方がない事も分かっている。だけど目の前で竜胆と金城のやり取りを見ていると、どうしても考えさせられる。――少しだけ前に進みたい、って。

竜胆は呼び始めた頃から自然に、それまでもずっと呼んできたみたいにさらりと『沙希』と呼んでいる。
金城は最初は呼ばれる度に顔を赤くして、呼ぶのも殆どが『竜胆さん』だったけど、今では多少吃りながらも『貴斗』と呼んでいる。
あまり変化のない竜胆は置いておいて、そんな金城の様子を見ていると可愛いと思う。いや、変な意味じゃなくて。
金城みたいに菅野が少し頬を染めて俺の名前を呼ぶ、そんな姿を想像すると堪らなくなる。
そう思う度、初恋をした中学生みたいな自分に苦笑いしてしまう。

資料で顔を隠しながらそっとデスクの向こうに視線をやる。口元に小さく笑みを湛えてパソコンに向かう彼女の顔が見えた。愛する人がそこにいるだけで満たされるから不思議だ。何だか眩しく見えて目を細めた。
視線がぶつかる。はっとする俺に反して、ふわりと微笑む彼女に胸が高鳴る。無性に恥ずかしくなってどぎまぎと視線を逸らした。
それでも気になってこっそり見ると、きょとんとした顔でまだ俺を見ていた。

君は今のままでいる方が、幸せ?



「呼びたいなら、呼べば?」
「……お前に相談したのが間違いだった。」
千果の突き刺す様な一言に肩を落とす。これまで厳しくも親身になってくれたからと恥を承知で話したのに、この幼馴染は優しくない。少しは俺の気持ちを察してくれ。
「ビール。」
「はい?今日車でしょ。」
「そんなのいつもの事だろ。泊めてくれ。」
「嫌よ。」
「何で?」
俺の問いにわざとらしい大きな溜息を返す。
みのりにはもう俺以外の客はいない。素の千果との方が話しやすくはあるけど、俺に対してオブラートに包む事をしないから普通に傷付く。今まで通り泊めてくれたら良いじゃないか。
「あんたね、彼女持ちの男が幼馴染とは言え女の家に泊まる
 なんて簡単に決めるんじゃないわよ。
 もし知ったらはるちゃん、嫌がるんじゃない?」
「へ?」
言われて考える。千果の家に泊まる事はこれまで何度もあったし、彼女自身も一緒に泊まった事もある。
付き合い出す前に嫉妬してくれた時もあったけど最近はそういう事もないし、一度だって千果について何かを言われた事はない。
なのに今更それを嫌がったりするだろうか。……それに。
「俺と千果がどうこうなるなんて絶対ないだろ。」
「当たり前でしょ。そんな話してないわ。」
食い気味に否定される。だったら問題ないだろう、と口を開きかけると、
「でもそれとはるちゃんがどう思うかは別じゃない。」
と静かに告げられる。
「はるちゃん、前に言ってたわ。うちから会社に行った日、
 胸のもやもやが暫く晴れなかったって。」
初めて聞く話に息が詰まりそうになる。言ってくれたら良かったのに。そんな俺の気持ちを感じ取った様に、千果は続ける。
「こんな事話したら、疑われてるってコウが悲しむんじゃ
 ないかって、あの子そんな事ばかり考えてる。
 自分が幸せを感じてるから余計にね。
 幾ら返しても返しても足らなくて困るって。」
そう話した彼女の事を思い出しているのだろうか。からかうでもなく優しい眼差しで笑う。
彼女は彼女なりに沢山俺の想いに応えてくれた。包んでくれる様な愛を返してくれている。足りない事なんか何もない。寧ろ多くて有り余って、手から溢れ出してしまいそうなのに、それでもまだ足りないと思ってくれる。俺の拙い想いはそれ程までに彼女の元に確かに届いているのだと思うと、また愛しさが込み上げる。
――もう抱えきれないくらい、君を愛してる。

千果の顔が少し意地悪く笑う。
「それにコウだって誰か、例えば竜胆君?
 彼がはるちゃんとやむを得ず2人で泊まるって事に、」
「駄目、絶対駄目。竜胆は金城しか見てないけど駄目。」
千果の言葉を遮って反対する。例え相手が竜胆だとしても彼女の寝顔とか見せる訳にはいかない。そのもしもを少し考えただけで、想像の中の竜胆に腹が立ってくる。そんな状況、回避しろよ!
「……はいはい、もう何も言わないわよ。
 名前なんて呼びたいと思った時に呼べば良いんじゃない。
 焦らなくても時間は幾らでもあるんだから。」
俺をからかったり馬鹿にしたりする事は多くても、最後には欲しい言葉をくれるから千果と幼馴染で良かったと思う。
どう呼ぼうがこの気持ちが変わる訳じゃないし、焦らなくても良いんだよな。



千果の助言から数日後。
少しずつ見慣れてきた光景に小さく息をついてソファから立ち上がる。
「……何か手伝う事ある?」
「いえ、大丈夫ですよ。座ってて下さい。
 今日はショップで接客までして疲れたでしょう?」
「それは……君も一緒だろ。」
「ふふ、私は平気です。接客経験はありますから。」
彼女は可笑しそうに笑って袖を捲くり、俺の事は置いて晩飯の下ごしらえを始めだした。
付き合い始めてから晩飯を一緒に食べる事が多くなった。大抵は俺の家で作ってもらって、それから家まで送っている。外食や彼女の家でも良いけど、少しでも長く一緒の時間を過ごしたくていつの間にかこれがパターン化している。
だから、彼女はいつも通りだ。いつも通り過ぎるから、大人しく座っていられない。

彼女が言う程、疲れている訳じゃない。疲れていないとは言わないけど。
今日は、社長からのいつものお願いを渋々聞いて販売ショップに行ってきた。いつもと違うのは彼女も一緒だった事。
「一緒に行けばもう行かなくても済むんじゃないか?」
自分が社員の言葉に根負けして行かせているくせに棚に上げて、社長からそんな事を言われた今朝。ショップに出ている社員達が俺の事をどう美化してくれているのか分からないけど、フリーじゃない事を示せば行かなくて済むのでは、と確かにそう思えて彼女にお願いして一緒に行く事になった。
ショップに着くとどんな情報網か、俺達が付き合っている事は既に知られていて、休憩をとる社員達に代わる代わる同じ様な事を根掘り葉掘り聞かれた。俺も彼女も。
いつも空いた時間に行く様にはしていたが、今日は帰してもらえなかったせいで商品の搬入の時間とかち合ってしまい、しかも急に客の入りも多くなってどういう訳か気付けば接客をしていた。
慣れている彼女とは違い、完全素人の俺はあたふたしつつも何とかピークをやり過ごす事ができた。
問題はその後。

***
「お姉さん、制服着てないけど店員なの?」
「店員ではありませんが、この店の会社の者です。」
「へー。可愛いね。」
……チャラい。見たところ20代前半だろうか。明るめの茶髪とじゃらじゃら付いたピアスが眩しい。店員かどうか聞いた後の可愛いね、は脈絡がなさすぎて意味が分からない。正直馬鹿っぽそうだと思ってしまうのは、その男に話し掛けられているのが俺の彼女だからとか言うだけではないと思う。
どうしてこう、チャラい奴を引き寄せてしまうんだ。彼女の可憐さのせいだろうか。
「店員じゃないならもう帰るの?」
「どうでしょう。」
「帰るならちょっと俺とデートしない?」
「しません。」
「真面目だねー。お茶の時間くらい許してくれるって。」
ね? と男は彼女の隣にいた女性社員に確認する。突然振られた社員は男の後ろに立っている俺をちらちらと見ながら、
「え、いや、その、」
と口篭っている。俺、そんな怖い顔してる?
丁度、搬入作業に出ていた社員達が戻って来たのが見えて、俺は歩き始めた。

「お客様、うちの社員に何か?」
「は? あれ、あんたどっかで、」
「当社で社員の貸出はしておりませんので。失礼致します。
 ……湖陽、帰るぞ。」
「あ、はい。」
笑顔で男の言葉は無視して、目の前でわざと彼女の名前を呼ぶ。バックヤードへと進む俺に彼女が返事をして付いて来る。
彼女の隣は俺なんだよ、ナンパ君。
***

あれから数時間経って、今考えると別にあんな風にしなくても良かったかとは思う。彼女が生活圏外のここに来る事はほぼないし、二度と出会う事もないだろう。彼女自身きっぱり断っていたんだから、もし偶然また会ったとしても付いて行く事は絶対ない。
それなら突っかかって行かなくても普通に会社に帰れば良かったんだ。男は俺の顔に見覚えがありそうだった。雑誌で見たのだろうが、俺の名前で会社を汚す事にならないとも限らない。……そんな事までできる様なタマには見えなかったけど。
よくよく考えて大人気なかったと反省している訳だけど。

「あれ、コンソメのキューブなかったっけ。」
「ここに入ってる。」
「あ、ありがとうございます。」

何か本当に、いつも通り過ぎないか?
あの男から引き離したい一心で呼んだとは言え、初めて下の名前で呼んだんだぞ。
焦って思わず言ったとかじゃなく、今まで言えずにいたのが嘘みたいに自然と口を衝いて出たのに、何もなかったみたいなまさかの無反応にこっちが困惑している。
あの時は突然だったから普通に返事したのかとも思ったけど、帰りの車中でも何か言われる事もなく、照れた様子もなく。
会社が終わって、スーパーで買い物をして、帰ってきて晩飯を作り出した今も尚、何の変化も見られない。
だからどう思ってるのかとか、これから名前で呼んでも良いのかとか、俺の事も名前で呼んで欲しいとか。話したいけど切り出すきっかけもない。でも今日の内に解決しておきたい。
だって折角、呼べたんだし。


「いただきます。」
俺に続いて彼女もいただきます、と挨拶して2人でポトフを食べ始める。彼女の実家から野菜が沢山送られて来たそうだ。
「味はどうです?」
「美味しいよ。」
彼女の手料理は確かに美味しいんだけど、頭の中ではどう話を切り出そうかと考えていていつの間にかスプーンが止まっていたらしい。
「何か、ありました?」
その声で我に返って顔を上げると、彼女が本当に心配そうな顔で俺を見上げていた。――今、なのだろうか。
「あのさ。」
「はい。」
「今日、男に絡まれてた時。」
「はい。あ、ありがとうございました。
 断ってたんですけど、なかなか退けてくれなくて。」
そういう事じゃないんだよなぁ。察してくれとは言わないけど、この流れでできれば思い出してほしい。
「それは別に良いんだ。俺の彼女なんだし。
 そこじゃなくて、さ。」
「え?」
深く息を吐いて、意を決して打ち明ける。
「名前を呼んだんだけど……聞こえてたよな?」
意を決して打ち明ける、つもりが予想以上に情けない声で尋ねてしまう。どうしてこう決まらないんだ、俺。
出たものは仕方ないし、彼女の答えを待つ。聞こえてなかったとか、ないよな?
「はい、勿論。」
「え。」
いや、聞こえてたとは思ってたけど、またもや普通に笑顔で返されて困る。彼女の照れて赤くなるところを何度も見たから、名前を呼ばれる事にここまで無反応とは思っていなかった。
「そ、そうだよな。うん。えっと。」
戸惑いながら言葉を探す。よし、ポジティブに考えよう。呼ばれて平気なんだから、これから呼んでも良いって事なんじゃないか。それに俺も呼んでもらえる筈だ。
照れてほしかったとか言う気持ちは、もう隠しておく事にする。
「これから、湖陽って呼んでも良いかな?」
「はい。最近ははるちゃんって呼ばれる事が多かったから、
 何だか新鮮です。」
「そっか。」
あぁ、やっぱり名前に関しては皆も俺も一緒なのか。
「じゃ、俺の事もこれから、名前で呼んでくれる?」
気持ち悪いくらい甘えた様な声が出た。うわ、恥ずかしい。引かれてないか?
「分かりました、」
承諾の言葉に一先ずほっとしたその時。

「幸多さん。」

まさか今呼ばれるとか思ってなかったし。まさかそんな可愛い顔で呼ばれるとも思ってなかったし。まさか彼女の口から出る俺の名前がこんなにも破壊力があると思わなかったし。
「え、だ、大丈夫ですか!?」
彼女が心配して濡れタオルを用意して駆け寄って来てくれるくらい、俺の顔は一瞬にして真っ赤になったらしい。
頬をタオルで優しく冷やしてくれる彼女の瞳が不安そうに揺れている。どうして俺が赤くなってるのか、分かってないんだろうな。
タオルと時折触れる彼女の指が冷たく心地良い。俺はその手をそっと握った。驚いたのか小さく震えた。
「湖陽……好きだ。」
彼女の顔を見上げ、そう伝える。想いが溢れ過ぎて、声が上手く出せなくなる。無性に甘えたい様な、何とも言えない気持ちになって座ったまま彼女を抱き寄せた。
引き寄せられて、彼女のスリッパが鳴る。抱き締めた身体から彼女の鼓動が伝わってくる。少し早い気がする。
「湖陽。名前、呼んで。」
額をお腹に付けて、もう一度せがむ。
小さく息を吸う様な音が聞こえて、それから覆い被さる様に俺の頭を抱き締めてくれる。
「――幸多さん。」
俺の鼓動の音と彼女の鼓動の音がうるさいくらいに耳に響いて、それでも彼女の大好き、という言葉は掻き消される事なく心の底まで染み渡った。

 

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