それはきっと、番外編。

些稚絃羽

彼女の秘密(幸多)

その日は、というより前日から調子を狂わされた。彼女はいつも俺の予想の斜め上を行くから戸惑わずにはいられない。

俺は何度か行っている古本市も彼女にとっては初めてで、折角だから初日に行こうと休暇は月曜と火曜の2日取った。開催場所の近くの旅館を運良く予約できたから、月曜の早朝にこちらを出て1日じっくり古本市を楽しんでから翌日帰る、という予定になった。と言うのも、彼女がいつも通りの予定で良いと言ってくれたからだ。俺としては朝早くから連れ出しても大丈夫なのかと心配もしたが、それに何でもない様に笑った彼女の言葉に違う心配をする羽目になった。
「朝早いのは得意なので大丈夫ですよ。
 あ、でも家まで来ると幸多さんが大変ですよね。
 迷惑じゃなければ日曜の夜、泊まっても良いですか?」
……彼女は俺がどうして1泊2日にしたのか分かっていないらしい。他の皆の負担にならない様にというのは勿論あるけれど、流石に好きな人と1泊以上の旅行はきつい。今時古臭いと思われるかもしれないけど、彼女とはずっとずっと先の未来まで考えて大切にしていきたい。いつか彼女の家族に挨拶する時、嘘偽りなく誠実さを示したいんだ。
そんな俺の、男の気持ちを知る由もない彼女は、平然と泊まらせてほしいと言う。他意はない事も俺の負担を軽くしようとしてくれている事も分かってる。分かってるから動揺していない振りをして、いいよ、と答えた。

寝転がったソファの上から寝室のドアを見つめる。暗がりの中でそのドアが分厚い壁の様に思えた。
ふと思い出す。昨年の夏の旅行で、寝ている彼女を抱えた事。無意識に浴衣の裾を掴まれて、座ったまま眠った事。皆の寝息が聞こえる中、2人の会話を楽しんだ事。
もう一度ドアを見やる。同じ家でもドアの向こうとこちら。同じ部屋で2人きりで眠るのは明日が初めてになると考えたら、ますます目が冴えた。
……あれ、2人きりの旅行に誘うって、もしかして不誠実?



「……じゃ、行くか。」
「はい、お願いします。」
その声を合図にアクセルを踏む。AM6:00。まだ比較的車通りの少ない国道をスピードに乗って走り出す。高速道路を使って約3時間の道程だ。大した事はない。いつもは1人のドライブも彼女が隣に座ってるだけで気持ちが弾んでいた。
が、それでも。
「大丈夫ですか? ソファ、寝にくかったですよね?」
「ふぁ……いや大丈夫だよ。そんなに悪くなかった。」
自然と出た欠伸を指摘されて、ソファのせいじゃないとも言えず濁す。寝心地としては当然ベッドには劣るけどかなり良いんだ、本当に。色々悩み始めたら止まらなくなっただけで最終的には少しは寝たし。と口に出せない言い訳が頭の中でぐるぐると回っていた。
「湖陽は? よく眠れた?」
枕が変わると眠れない人、という訳ではないだろうけど男のベッドで寝るのが平気かどうかはまた別問題だろう。どうしよう、綺麗にはしてるつもりだけど今になって臭いとか気になってきた……。
「はい、もうぐっすりでした。多分あれですよね。
 幸多さんの匂いがして安心できたからだと思います。」
「へ、へぇ。」
……何か、もう嫌だ。

何とか気持ちを持ち直して、たわいも無い会話をしながら高速道路をひた走る。目的の県に入ってからは彼女の瞳が期待にきらきら光っていて何だか微笑ましかった。
「あとどの位ですか?」
「んー、15分位かな。」
「もう少しですね! あ、幟が立ってる!!」
窓ガラスにへばりついて外を食い入るように見ている姿は少女の様で、こんな彼女を知っているのは俺だけなんだろうと思うと堪らなく幸せだった。
「危ないから、ちゃんと座って。」
「あ……はい、ごめんなさい。はしゃいだりして……。」
恥ずかしそうに座り直すも視線はちらちらと外に向いているのが分かって、思わず声を上げて笑ってしまう。笑わないで下さいよ、と少し不満げにしているのも愛らしくて、
「可愛かったよ。」
と教えてあげた。でもそれが恥ずかしかったらしく顔を赤くして、駐車場に着いて車を停めても口を噤んだままだった。

「とりあえず朝ご飯、食べよう?」
座席に座ったまま動こうとしない彼女に、できるだけ優しく声を掛ける。もし失敗して喧嘩にでもなったら最悪だ。未だ喧嘩未経験だからどうなるか想定できない。
「……車、置いてて良いんですか?」
「うん。この駐車場、古本市に来た人なら誰でも停められて
 そのままご飯とか行っても良い事になってるから。」
答えると、目線だけをこちらにやってすっと逸らす。こういう反応された事ないからどうしていいか分からない。でもこうなったら、とことん甘えさせるのも良いかもしれない。
「ね、何食べたい?」
「……カルボナーラ。」
朝から結構食べるんだな。

一番近くのパスタ屋に入る。この辺りの店はどこも夏休みの間は早い時間から営業している。でも夏の朝一でカルボナーラを頼む客は少ない様で、若い店員に2回も聞き返された。俺はそれが可笑しくて笑っていたけど、彼女の方は何がそんなに可笑しいのかときょとんとした顔で俺を見ていた。
「お待たせ致しました。カルボナーラお二つです。」
「ありがとう。」
声を揃えて礼を言えば先程の店員が楽しそうに笑って、ごゆっくりどうぞ、と言い去っていく。
さて。食べ物で機嫌は良くなるだろうか。そもそもどうして機嫌が悪くなったのかいまいち分かっていないんだけど、聞いても教えてくれないだろうな。
「美味しい?」
「はい、とっても! あ……。」
まるで素直に反応する事が悪い事みたいに押し黙るから、何かおかしいと気付く。目の前の彼女は俯き気味に目を泳がせて、ひたすら食事に勤しんでいる。深追いして本当に仲違いしても困るから、ボロを出すまで付き合おうか。

口数の少ない食事を終えて店を出る。食べ終わるまでそわそわと落ち着かない様子だった彼女も満足げに微笑んでいる。どう考えても無意識なその表情に、意外と現金な人なのかなと思ったりする。本気で不機嫌だった訳じゃない筈だからあまり関係ないのかもしれないけど。
そんな彼女を見ると、少し意地悪を言いたくなってくる。
「機嫌、良くなった?」
幸せそうだった顔をこちらに向けて言葉の意味を考える様に視線を上げた後、慌てて顔を顰めてみせた。でも上手く顰められてないのが可愛い。怒っている様な笑っている様な、それでいて泣き出しそうな顔で彼女は言う。
「まだ、良くなってません。」
「じゃ、どうしたらちゃんと笑ってくれる?」
眉間に小さく刻まれた皺を伸ばす様に撫でると、その手を掴まれる。
「……これで、良いです。」
そう言って控えめな力で俺の手を握った。手を繋ぎたいって思ってくれた? 触れ合っていたいって?
少し照れながらも笑顔を見せて手を引くから、俺の方も離れない様にしっかりと握って歩き出した。


「見えてきましたね。」
暫く歩けば、陽に照らされた白いテントの波が見えてくる。開始時間すぐだと言うのに既に多くの人の俯く背中が見えて今年もかなりの賑わいになりそうな予感がした。
広場いっぱいにテントが軒を連ねている様子は、何度見ても気分が高揚する。繋いだ手が引かれる度、彼女が思わず早足になっているのが分かった。ここで行なわれている古本市は規模の大きなもので、15の書店が出店し、約7万冊が並ぶという。最近は彼女行きつけの古書店に出向く事が多いけど、一度にこれだけ本が並んでいるのを見て浮き足立たない訳がない。でも今日はできるだけ彼女優先に徹しようと決めて店舗の傾向を伝える。
「――で、おすすめなのはここだな。ん、何か可笑しい?」
俺の話を聞きながら小さく笑っていた彼女に問う。すると、
「ガイドさんがいて、頼もしいなと思って。」
と返ってくる。楽しんでもらおうと思ったらまさかガイドさんなんて言われるとは思わなかった。でもまぁ、今日くらいは良いか。
「どちらにお連れしましょうか?」
「じゃ、ガイドさんおすすめの所からお願いします。」
そんな事を言い合って俺達の古本市巡りは始まった。離れた手が寂しくはあったけど、好きなものを思う存分楽しむ彼女の隣にいるだけで満たされる様だった。



終了のアナウンスを聞いて駐車場へと並んで歩く。
「昼飯食べるの忘れてたな。」
「あ、本当ですね。」
本を見つけては話をして、を繰り返しているとあっという間に時間が過ぎてしまった。飯を食べる事すら忘れてしまうくらい夢中になっていた。最初から最後までいたのは俺達くらいなものかもしれない。追い越していく人達の背中を見ながらそんな事を考える。
「本、持ちますよ。殆ど私のでしょう?」
「良いって。暑くて疲れただろ? 甘えときなさい。」
袋の中は文庫本とハードカバー合わせて7冊。彼女の分が5冊だ。結構重量があるのに持たせられない。殆どの時間をテントの下で過ごしたと言っても、真夏日にずっと外にいたのだからかなり疲れが出ているだろう。飲み物は飲む様にしていたけど体調は大丈夫だろうか。
「幸多さんこそ。テントの中に入れてなかったですよね。」
「そんな事ないよ。」
「でも、ここ日焼けで赤くなってます。」
指の触れた頬にひりりとした軽い痛みが走る。テントの中の彼女の背中が焼けない様に影を作っていたら、いつの間にか外に出ている事が多くて気付かない内に日に焼けていたらしい。
「このくらい大した事ないから。ほら乗って。」
まだ何か言いたげな彼女に笑って、旅館へと向かう事にする。

「立花様、お待ちしておりました。」
「お世話になります。」
「今年も良いものがありましたか?」
「結構良いのが入ってきてましたよ。」
顔を輝かせた女将さんが部屋まで案内してくれる。この旅館を使うのはもう何回目だろう。毎年こんなやり取りをしている。女将さんも大の本好きで、古本市の最終日の1時間だけは無理を言って参加させてもらっているそうだ。自分も初日に行ってみたいと常々言っているけれど、女将をしている以上は難しいだろうと思う。
「今日は素敵なお連れ様がおられて。」
「あぁ、まぁ。」
「良いですね。私も昔を思い出しますわ。
 今日のお部屋は菫の間にございます。どうぞ。」
部屋に通されると、では失礼致します、と女将さんが早々に出て行く。説明は不要だと伝えてはいるが、いつも以上に下がるのが早い。気を遣ってくれたんだろうけど、逆に恥ずかしい。
夕食まではまだ時間があるから、それぞれ温泉に入ってくる事になった。
「先に戻っていて下さいね。」
その言葉が2人で来た事を改めて感じさせて、やっぱり照れ臭かった。

部屋に戻って彼女が戻ってくるのを待っていた時、着信音が鳴った。俺のではない。テーブルの上に置かれた彼女の携帯だった。鳴り続ける着信音に申し訳ないと思いつつ見ると、<千果さん>の文字。迷わず出た。
「もしもし、はるちゃん?」
「何の御用でしょうか?」
「御用があるのははるちゃんになんですけど。」
明らかに嫌そうな声で答える千果に、彼女はお風呂に入っていて出られない事を伝える。
「人の電話に勝手に出るなんて、嫌われるわよ。」
「千果からだから出たんだよ。」
邪魔される気がして、と付け加えると失礼ね、と返ってくる。
「楽しく電話するはるちゃんを指咥えて眺めさせようと
 思っただけじゃない。」
「それを邪魔って言うんだぞ。」
素早く訂正するとけらけらと笑い出す。俺をからかうのが当然の事の様になっているのが悩ましい。こいつと関わる事で金城みたいに、彼女が影響されなければいいと心の底から願った。
「これでやめとく。それより聞きたい事あるんだけど。」
「何?」
「今日のはるちゃん、機嫌悪かった?」
その質問の意図を聞こうとして、分かってしまった。あの不機嫌な振りは千果の入れ知恵だったらしい。
「返事がないって事は上手くやったのね。」
「お前、何て言ってあんな不慣れな事させたんだよ?」
聞きたい? との声に少し苛立って勿体ぶるな、と返してやった。
「機嫌悪い振りしたらもっと甘やかしてくれるって。」
「は?」
「いつも優しいから、って言ってたけど折角の旅行なんだし
 いつもと違う雰囲気味わっても良いんじゃないかって、
 言ってあげたの。」
「いつもと違う雰囲気って言ったって……。」
何か裏がありそうだとは思ったけど、気が済むまで甘やかしてあげようと思ったのは事実。でも千果に踊らされている様で癪に障る。そんなの無くたって、彼女が望むならいつも甘やかしてあげるのに。
「で? はるちゃんから手を繋がれた感想は?」
「は!?」
「あら、本当にしたのね? あの子やるわね。」
そこでカマをかけられた事に気が付く。2人がどういう話をしていたのかは分からないけど、あれも話に出ていたらしい。俺は彼女が絡むとどうしてこうも過剰に取り乱してしまうんだ。千果も思うツボじゃないか。
「じゃ、はるちゃんによろしくね。」
俺の怒り心頭具合に気が付いたのか、そう言って締め括るから何も答えずに切ってやった。
テーブルに携帯を置いたところでぱたぱたと足音が聞こえて、部屋の襖が開く。
「戻りました。……どうかしました?」
相当顔を顰めていたのか、彼女が眉を下げて聞いてくる。まだ少し濡れた髪、ほんのり赤く染まった頬に心配そうな表情。千果の悪知恵でも彼女の想いがそこにあるならもう何でも良いかなって、やっぱり俺は彼女を甘やかしたいらしい。


やがて食事の時間。豪華な食事はいつもと変わらず美味しい。いや、よく知っている筈の味もやっぱり2人で食べると全然違う。美味しい食事があって、愛する人と交わす微笑みがあって。彼女と食事を共にする様になってから、そういう事がとても尊い事だと思う様になった。母さんと2人の食卓を思い出す様な、それでも何か違うものの様な、上手く言い表せられないけれどほんの少し何かが込み上げるみたいに胸が詰まりそうになる。
こんな風に誰かと、家族になりたいと望んだのは初めてだった。

「飲んでも介抱する相手がいないのは平和だな。」
グラスを傾けながらしみじみ思う。
「ふふ、あの旅行の事思い出しますね。」
そうだ、あの時は林田と天馬に巻き込まれて大変だった。翌朝の筋肉痛は結構ひどかったし。そう考えて、彼女との事も思い出した。酔いに任せて思うままに言葉にして、それに真っ赤になる彼女は可愛かった。
ふと視線を移すと、彼女が気まずそうに俯いている。もしかしたら同じようにあの時の事を思い返したのかもしれない。意識しているのかと思うと何だか胸が高鳴った。
いつもと違う雰囲気。千果の言葉が耳元で囁く。家じゃ恥ずかしくてできないから、今日だけは少しだけ羽目を外してみても良いだろうか。
「湖陽。」
「はい?」
顔を上げた彼女と視線が絡む。黙ったままの俺を不思議そうに見る。
「あの、幸多さん?」
あの頃と違う互いの呼び名。自分の名前でさえ愛おしくて堪らない。
名前で呼び合って、手を繋いで歩く様になった俺達の関係はあの頃とは違う。――ここからは、俺の冒険。
「湖陽、来る?」
あの日をなぞるみたいに、胡座をかいた膝をぽんぽんと叩く。今の彼女はどんな反応をするだろうか。また真っ赤な顔で、行きません、って断るのかな。
すると彼女の顔がみるみる赤くなる。今にも湯気が出そうなくらい。それから、立ち上がった。口を真一文字に引いて俺の方へと近付いて、横にストンと座った。
来る? って聞いたのは俺なのに実際来られるとちょっと戸惑う。その場合の反応は用意してなかった……。
「し、失礼します。」
「あ、どうぞ……。」
律儀に挨拶されて釣られて答える。遠慮がちに太ももに頭を乗せて、恥ずかしそうに両手で顔を覆っている。上を向いた赤い耳が隠れていないけれど。
「……固いですね。」
「男の足に柔らかさ求めちゃ駄目。」
「あ、ですよね……。」
沈黙。話す事も見つからず、頭を乗せているから下手に動けずに身を固くする。どうしようか。
「あの、ですね?」
「ん?」
考えている内に彼女が口を開く。
「本当はあの時、羨ましかった。すごく特別な事みたいに
 思えて2人が羨ましかったんです。だから、嬉しい。」
小さな声で秘密を話すみたいに教えてくれる。そんな風に思っていたんだと知って舞い上がる気持ちを抑えられない。あの旅行の間何度も感じた自惚れみたいな気持ちが、勘違いじゃなかったって言われている様な気がして、彼女を抱きしめたくて仕方がなかった。
その気持ちをぐっと堪えて、彼女の頭を撫でる。もうすっかり乾いた柔らかい髪の感触が心地良かった。
「じゃ、湖陽の為にずっと空けといてあげる。」
俺の声に目だけをこちらに向ける。その顔が嬉しそうに破顔して、はい、と答えた。もうそれ以上何も言わず、俺はただ彼女の頭を撫でながら愛しい重みを感じていた。
窓から流れる涼やかな風と共に、花火の弾ける音が聞こえた。

 

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