それはきっと、番外編。

些稚絃羽

どんな未来も(湖陽)

気が付けば、目の前は鮮やかな青だった。
純粋で混じり気のない、果てしなく広がる青。視界の隅からゆっくり流れて来た柔らかな白に、それが空だと気付く。時折風が吹いては大好きなオレンジの香りをどこからともなく運んでくる。ここは、どこだろう。
小さな鳥達が互いに触れ合いながら、上へ上へと飛んでいく。
私の身体を受け止める柔らかい感触を撫でながら、ゆっくり起き上がった。

見た事のない、けれどなぜだか懐かしい丘に私はいた。
遥か下まで伸び、振り向けばまだ上へと向かうこの丘は一面鮮やかな緑の草で覆われ、風がそよぐ度に揺らめいてきらきら光る。まるで海の波の様に穏やかな音を立てて、寄せては返していく。

――綺麗なところ。

呟きは大した声にならないまま、口元でシャボン玉の様に弾けた。
青い空を切るみたいに飛行機雲が伸びていく。
ふっと息を吐き出せば、向こうの大きな雲が散り散りに別れて小さな粒になる。
不思議なところだな。

目の前をモンキチョウがひらひらと横切って行った。
それを追いかける様に足元をリスが走り、傍に立つ木を駆け上がっていく。
耳を立てた赤茶のうさぎが2羽、木の周りを跳ね回る。

――可愛い。おいで。

呼び掛けると応える様に、うさぎもリスもモンキチョウさえ私の周りをくるくると回りだす。まるで歓迎してくれているみたいに。
リスが足元から上がってきて私の肩を休み場にする。何かを確認する様に私の頬をつついて、小さく笑った気がした。

すぐ傍を子鹿が優雅に歩いて行く。背中に小鳥を乗せて。
その後ろを嬉しそうに子豚が追いかける。巻いた尻尾が震える後ろ姿が愛らしい。
木の実を抱えたアライグマがこちらへやって来て、私に自慢げに差し出す。

――ありがとう。

頭を撫でてあげると照れ臭そうに頭を掻いて、子鹿の背を追って行った。誰かに少し似ている気がした。

――君達も行っておいで。

手を差し出すとリスが跳ねる様に飛び移る。地面にそっと下ろしてやるとお礼を言うみたいに振り返る。貰ったばかりの木の実を1つ手渡すと慌てて口に放り込んだ。頬を大きく膨らませて、うさぎと一緒に駆け出す。私の肩では代わりにモンキチョウが羽を休めている。
木陰に動物達が集まって、楽しそうに身を寄せ合う。彼等の日常は朗らかで、見ている私まで暖かな気持ちにさせた。
空にはくっきりと飛行機雲が残っている。

私のすぐ傍を、少女が駆けて行った。小さく風が吹いた。
華やかな薄いピンクのバルーンスカートの裾を翻しながら、丘の上へと上っていく。艶やかなブラウンの長い髪が踊る様にその背中を覆う。
気付けば丘のてっぺんには白壁の大きな家が見える。少女はその家に帰るのだ。私はそれを知っている。
少女の存在に気が付いた動物達は、はしゃいだ様子で追いかけ始めた。
歩みの遅い子豚を介抱する様にアライグマが寄り添い歩く。子鹿は既に少女の隣を進んでいた。

また1人、少女が隣を駆けて行く。木の枝から離れた葉が舞い上がる。
眩しい程に真っ白なワンピースを踊らせて、小さな足で追いかける。長い草に足を取られそうになりながら、それでも懸命にもう小さくなった背を追い続けている。
その姿に、私は声を掛けた。

――ことみ。

少女は足を止めて振り返る。肩まで伸びた髪がふわりと跳ねた。
私によく似た少女は嬉しそうにくしゃりと笑って、口を開いた。

風が吹く。強く全てを巻き込む様な、突風。
少女の声は届かずに遥か彼方へと光となって飛ばされた。
やがて風が止み、思わぬ激しさに固く瞑った瞼をゆっくりと開く。
2人の少女も、動物達も、もういなくなっていた。
緑の丘はいつの間にか、鮮やかなピンク色に染め上げられている。

私は独りぼっちで、丘の真ん中に立っていた。
誰かと見た思い出の景色に、少しだけ息が苦しくなる。
心の中で文字にならない想いが込み上げる。
たった1人、私はたった1人の人をそこに探していた。

――湖陽。

求めていた声が私を呼ぶ。待ち切れずに振り返ると、彼がゆっくり近付いて来ていた。
慈しむ様な微笑みを湛えて、目の前まで。
背中に隠していた左手が差し出されると、そこには真っ白なかすみ草のブーケ。
粒になった雲を散りばめた様な柔らかな花が小さく揺れる。
受け取ったブーケを胸に抱き締めた。
彼の長い指が優しく花を撫でる。
その手がそっと持ち上がり、私の頭に触れる。
摘まみ上げた木の葉を、風に任せる様に飛ばした。
再度手が伸びて髪を梳く手の温度に、訳もなく愛しさが溢れた。


***


「……湖陽?」

優しい声に瞼を上げる。薄ぼんやりした視界に何度か瞬きを繰り返すと、愛しい人が私の瞳を覗き込みながら髪を整えてくれていた。身体を起こすと掛かっていたブランケットの端がふわりと腿の上に落ちる。頬に温かい何かが走った。
「ごめん。ちょっと窓開けたら予想以上に風強くて。
 寒くなかった?」
頷くと大きな手が頬を拭う様に包み込む。そして笑みを深くして頭を撫でてくれる。それが心地良くて目を瞑って身を任せていると、ゆっくりと感触が遠のく。それに釣られる様に目を開くと、立ち上がった彼が日の落ち始めた窓にカーテンを引いていた。秋らしい鮮やかな夕焼けがカーテンに隠れた。
さっきの丘での出来事は夢だったんだ。
彼が動いて起こる風で、オレンジの香りが私の元まで届く。壁際のディフューザーから伸びるミストの筋がゆらりと大きく揺れた。
爽やかな香りが薄らぐと、今度はキッチンからスパイスの効いた香りが鼻を掠める。
「……カレー?」
「うん。簡単なもので悪いけど。」
未だ冴えない頭を振って、ありがとうと返す。私が寝ていたから代わりに作ってくれたんだ。
ソファに座ったまま大きく伸びをする。カレーの香りを肺一杯に吸い込んだら頭がすっきりしてきた。
「もう飯、食べる?」
「うん。食べる、ます。」
「まだちょっと、寝ぼけてるだろ。喋り方、変。」
はは、と笑いながらキッチンで動き回る彼を見て、私も小さく笑った。

夢の中も現実も、あまり変わらないな。
広大な丘とマンションの一室では見えるものは全然違うけど、心の中の幸福感は同じ。彼がいて、私がいて。ふとした事で笑い合う時間に、胸の辺りが暖かくなる。
それを伝えたいって思うのに、しっくりくる言葉が見つからない。少しもどかしくて、そのまま音を立ててソファに寝転んだ。
「そういや、何か夢でも見てた?」
「分かりますか?」
「寝ながら、ことみって呼んでたから。」
呼んだのが男じゃなくてほっとした、なんて肩を竦めて言う。そんな彼に寝転んだまま顔だけ向けて、眉を顰めて応える。
「冗談だよ、ごめんって。」
「当たり前です。」
そう言い切って、まだ記憶に鮮明に残る景色を思い出す。

晴れ渡る青空。伸びて行く飛行機雲。
一面の緑から思い出のピンクへ。
振り返る少女に、愛しい人。
渡されたかすみ草のブーケ。

「――素敵な夢でした。とても幸せな。」
「そうだな。……正夢になると、良いな。」
その言葉は未来の約束。あの少女が本当に私達の元に来てくれるなら。夢なんかじゃなくて、思い出の場所にいつか3人で。
でもね。頷かないの。
「私は、正夢にならなくても良いです。」
「え?」
寂しそうに落ちた問い掛け。テーブルにぶつかる食器の音。
寝転んだまま、彼の方に身体を向ける。布擦れの音が耳に響く。
その揺れる瞳が、愛おしい。
「だって男の子かもしれないでしょう?貴方によく似た。」
それだけで伝わって、目を小さく見開く。瞳がきらりと光った。

伸ばした手を優しく握って、彼は胸が苦しくなる様なキスをくれた。
そして額を合わせて睫毛を震わせて、掠れた声でそうだな、と微笑んだ。

 

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