それはきっと、番外編。

些稚絃羽

好きになる瞬間(徹司)

その人に初めて会った時、何だかこう、全身の血が駆け巡るみたいな衝撃があった。
カウンター越しに見る和服美人が俺を見つめていらっしゃい、と微笑んだ時、本気で卒倒しそうになった。



運命、って言葉はすごく好きだ。何よりも強い力で引き寄せられているみたいに感じるから。
恋愛を意識し始める年頃になると男友達には――女である筈の姉にでさえ――バカにされていたけど、きゅんきゅんする少女漫画が好きになった。そこで出会う二人みたいな、永遠に想い合える運命の人と巡り会える日を待っていた。ずっと、探していた。
だけどそんな人に出会えるのが簡単な訳がなくて。いや、運命の人かも、って信じた事はある。というより好きになる相手はいつだって運命の人だと思ってる。だけど上手くいかない。好きだから頑張って、好きだから張り切るのに……どうしてかな。別れの言葉はいつも「面倒臭い」だ。一緒にいると疲れるんだってさ。一途なとこが好きって、言ってくれていたのにな。

恋愛って、難しい。

だけど諦めることもできなくて。寧ろ運命の人に出会ってやる、って気持ちが強くなって。
この会社に入って立花さんと出会った時に、これが大人かって衝撃を受けた。同時に今までの自分がいかに子供だったかって事に気付いた。自分の気持ちを押し付けて満足して、分かってもらえないことを不満に思ってた。そんな独りよがりな恋が長続きする筈がない。

立花さんは一人一人の事を見てくれて勘違いしそうなくらい大切にしてくれる。厳しく教えて、その後は極上に甘やかしてくれる。漫画から出てきた王子様みたいな人だ。俺が女に生まれてたら絶対恋してる。今だってそれに近かったりする。
竜胆さんもそんな人だ。少し無口で無愛想で痛いところをズバッと突いてきたりもするけど、困った時にさりげなく大事なところをサポートしてくれて、その上立ててくれる。お前が頑張ったからだ、って。こういうキャラも絶対いる。

俺だって立花さんや竜胆さんみたいに、モテモテになりたいとは思わないけど、スマートで男から見ても格好良い男になりたい。
二人は頑張らなくても皆の中心にいて、俺と何が違うのかな?  話し方が駄目なのかな?  皆を楽しませたいとか盛り上げたいと思っちゃいけないのかな?  顔に男らしさが足りない……のは生まれもったものだからどうしようもないし。

一番良いのは俺自身を好きになってくれる人、なんだけどなぁ。
……いや、やっぱり一番良いのは、千果さんが好きになってくれること。夢のまた夢かもしれないけど。


***

今日はチームの親睦会。立花さんが行き付けの店に連れてきてくれた。車から降りて店の佇まいを見て、大人の店だなと思った。入社したての二十歳の俺が入ったら、場違いって追い返されるんじゃないか? それくらいの気品が漂っている。
小料理屋みのり、か。俺もこれからこういう大人の店をいっぱい知っていくんだろうなぁ。

先輩達が戸を開けて入っていく。続いて足を踏み入れると、店内も趣のある良い雰囲気を醸し出している。だけど俺達の他に客はいないらしかった。まだ時間が早いからかな。
「いらっしゃい」
艶やかな声が耳届く。その声に引き寄せられるように、店内を見回していた視線を正面に戻す。そうして俺の時間は止まった。

温かみのある白い生地に、淡い水色と銀の模様が散りばめられた着物を身に纏った長身の女性が、カウンターの向こうに佇んでいた。猫の様な大きな上向きの目が俺を見つめている。
かっ、と血液の循環が三倍速くらいになった気がした。証拠に、心臓が暴れるほどに音を立てて鳴っている。頭が真っ白で、ただその人という存在だけが脳内を埋め尽くしていた。

「いらっしゃい」
呆けている俺を不思議に思ったのか、もう一度声を掛けてくれる。それを正面から捉えれば、眩暈がしそうなほどに胸を打たれた。初めて体験する類の衝撃に焦った俺は思わず、
「あ、お、お世話になります!」
と言ってしまった。
「何のだよ」
立花さんが呆れ顔で言って、とりあえず座れ、と自分の横を指差してくれた。
「す、すみません……」
「そんなに緊張されなくても大丈夫ですよ? 
 今日は貸し切りですから、寛いでくださいねぇ」
小さく首を傾げて微笑んだ。そんな仕草にさえも目を奪われて見つめていたけど、その女性は何か作業を始めてしまった。多分この人が一人でこの店を切り盛りしているんだろう。貸し切りとはいえ6人分を用意するのも大変だと思う。一先ず邪魔だけはしないようにと立花さんの隣に腰を下ろした。
すると、向かいに座っている大木さんが目を爛々と輝かせて小声で話し掛けてくる。
「林田、チカさんには惚れるなよ?」
「え?」
「ここに通う男性客の高嶺の花。美人で料理は美味いし、
 男の扱い方も上手い。それにのせられて惚れたりして
 俺達みたいなぺーぺーが手出したら痛い目見るぞ」
大木さんの話し振りで、あの人はチカさんというらしいと知った。そして同時に、胸の奥に沸いた熱を冷まさないといけない事も。
「立花さんみたいな人が相手だと釣り合うだろうけどな」
続いた言葉で思い出した。親睦会が決まった後、立花さんが給湯室で電話しているのを聞いた事。その時呼んだ「チカ」ってあの人の事なんだ。……もしかして、二人は恋人同士?

大木さんは俺との話は終わったとでも言うように、もう隣の赤星さんに話し掛けている。
そういう人だ、人をからかったりするのが好きで、でも冷めるのも早いから気付いた時にはもう遠くで全く違う事をしていたりする。台風みたいな厄介な人が大木さん。立花さんとは対照的に見習いたくないタイプの先輩だ。
そして最近ちょっかいを出されているのが赤星さん。大人しい人でいかにも女性っていう感じの人だから、大木さんからしたらからかいがいのある相手らしい。赤星さん、同情します。

隣の立花さんに目を向ける。壁に背中を預けてぼうっとカウンターの方を見ている。仕事中の引き締まった強い目とは違う、寛いだ素の表情。まるで家に帰って来たみたいな……。
「あの、立花さん」
「ん? どうした?」
「立花さんって」
「お待たせしましたぁ。まずはお通しどうぞ」
聞こうとして、お盆を持った千果さんが入って来たから口を噤む。テーブルに小鉢を置く手のしなやかさにまた釘付けになる。
「飲み物は皆さん、いつものでよろしいです?」
その言葉に皆は頷いている。親睦会とは言いつつ、新しく入ったのは俺だけだから、先輩達は既に何度か来ているんだろう。それが少し疎外感。
「あぁ、お客さんは初めましてですねぇ?」
「え、あ、はい!」
瞳と言葉が自分に向けられて、慌てて返した返事が思わぬ大きくなる。目を丸くした千果さんが控えめに笑う。
「鈴村千果と申します。この店の女将をしてます。
 立花さんの幼馴染なので、こうしてよく使っていただいて
 いるんですの」
幼馴染。こちらから聞く前に話してくれて良かった。でも幼馴染と言われたからって恋人じゃないとは限らないし。今はとりあえずその名前が知れた事を素直に喜ぼう。鈴村千果さん、優しい響きだ。
「あ、えっと林田徹司です!」
「林田さん、ですね。何を飲まれます?」
「とりあえずビール、お願いします……」
言いながら居酒屋みたいな返しになって無性に恥ずかしい。だって名前呼ぶから、何か照れちゃって。
自分の言動ひとつひとつが慣れていない感満載で、きっと子供っぽいって思われていると思う。
「お好きなものはあります? 食べたいものとか」
「えっと、そうですね、えっと……」
「焦らなくて大丈夫ですからね、適当にお出ししますから
 何か食べたいものがあったらお声掛けてくださいねぇ」
「……はい」
最後にまたにこりと微笑んで、カウンターに戻っていく。結い上げた黒髪が輝くくらいに艶やかで、その後ろ姿さえ美しかった。

妙に間延びした話し方もその声のせいかくどくなくて、寧ろ心地良かった。それに周りの人から林田君って呼ばれる事の方が多いから、年上の女性から林田さんって呼ばれるのが何かこう、ぐっと来た。客だから当たり前なんだろうけど、そんな事関係なくなるくらい舞い上がっていた。
――これはもう完全に、恋だ。


酒や料理がどんどん運ばれてくる。千果さんが言っていた通り、チームで来る時は料理はいつもお任せで食べたいものがあったら作ってもらう、というスタイルにしているらしい。先輩達が慣れた様子であれが食べたい、これが飲みたいと言っているのを見て、早くこの雰囲気に慣れようと心に誓った。少しでも大人に近付きたい。
「千果、鯖寿司」
「はいはい」
突然上がった立花さんの声に当然のように答えて運んでくる、まさに阿吽の呼吸だった。流れるようなそのやりとりに呆気に取られた。
「立花さん、本当に千果さんの鯖寿司好きですね」
「千果のというより、ここでしか食べないけどな」
「つまり千果さんのしか食べたくないと?」
「……大木、何でお前はそう繋げたがる」
「え、面白いからに決まってるじゃないですか」
大木さんの返答に溜息を吐いて、立花さんは鯖寿司に箸を伸ばす。口に運んでもぐもぐと噛みながら、思わず出たような自然な笑みが細められた目元に滲んでいた。
「コウの好みの味で作ってますからねぇ。メニューにも
 出してないので、その人のためだけの料理ですわ」
「……お前も乗ってくるな」
睨む立花さんと可笑しそうに口元を隠す千果さん。内容から恋人ではないみたいだけど、幼馴染の仲の良さが伝わってくる。
コウ、っていうのは立花さんの事か。幸多だからコウ。そういう呼び方も入り込めないものがあって、ビールを流して誤魔化す。
立花さんにその気はなくても、もしかしたら千果さんの方は。こんなに出来た男が近くにずっといたら、他の人なんか小さく見えるんだろうな。
何かもやもやして、気を落ち着けるために細く長い溜息を吐く。会話は気付けば違う話題で盛り上がっていて、俺の溜息は上手く紛れたと思う。

「林田さん、これどうぞ」
声がして、顔を上げると千果さんが器を置くところだった。中には肉じゃが。あった筈の大皿の方は空になっているけど、どうして俺にだけこれを?
不思議に思って見返すと、
「美味しそうに召し上がってくださっていたので、
 お好きなのかと思ったんですけど、違いました?」
「いえ! 好きです!」
「なら、良かった。どうぞ」
告白くらいの勢いで返した自分に顔が赤くなる気がしたけど、平常心、と心の中で唱える。千果さんは特に気にしてないようだし。
肉じゃがが何よりも好きかというと別にそういう訳じゃないんだけど、千果さんが作ったこの肉じゃがは本当に美味しい。崩れそうなくらい煮込んであるのにホクホクして、味がよく染み込んでいる。あんまり美味しいから実はあの大皿の半分は俺が食べていたりする。ついでに言えばもっと食べたいと思っていた。
それを見られていたなら居心地が悪いけど、そんな細かいところまで見てわざわざ持ってきてくれた事が嬉しい。なんて気配り上手な人なんだ。俺の事に注意を払ってくれていると分かっただけで胸がいっぱい。
「こういう店じゃあまり楽しくはないですよねぇ」
ジャガイモを口に放り込んだ時、そんな事を言われる。否定したいのにジャガイモがなかなか飲み込めなくて、咀嚼しながら首を何度も横に振った。
「そんな事ないッス! ただ大人って感じがしてちょっと
 緊張はしちゃいますけど……素敵なお店だと思います!」
「あら、ありがとう」
その表情が本当に嬉しそうに笑っていて、何回か向けられていた笑顔のどれとも違う、心からのものに思えた。殆ど何も知らないのにどうしてそう思うのか分からないけど。ただ思わず手を伸ばしたくなるような近付きやすさがあった。


出会ってまだ数分なのに、どうしてこんなにも気になるんだろう。前から好きだったみたいに表情や仕草を追ってはどきりとして、先輩達と笑う度にそわそわして。
確実に一目惚れ。こんな事初めてだ。一目惚れってこんなに強烈なものなのか?
高嶺の花だって事は分かるけど、諦めろと言われたって簡単にはそうできないくらい、この短時間で気持ちは膨らんでいた。

運命だ、きっと。千果さんが俺の運命の人。だって心が強く惹かれている。これから知っていく度どんどん好きになる、そう思えた。
でも好きになってもらうにはハードルの高い相手だ。大人の男にならなきゃ。隣に並んでも恥ずかしくない男になってやる!
ジョッキに残ったビールを勢いよく飲み干すと、頭がふわっとして意識が途切れた。

***


あの後、結局潰れちゃって立花さんに家まで送ってもらったんだよな。大人の男に! って思った矢先にそれで、翌朝立花さんからの電話でそれを知った時は落ち込んだなぁ。土曜日を丸々寝て過ごすほどとは自分でも思わなかったけど……。


初めて会ってからもう五年が過ぎたのか。改めて考えると空回りばっかりしてたと思う。
千果さんに男として見てもらうにはどうしたらいいか知りたくて、会社の年上の女性社員によく話し掛けたり飲みに行ったり。情報収集が目的だったのに、いつの間にか会社の人には年上好きの軽い男だと思われていた。
一人でみのりに行く勇気がなかなか出なくて、会えるのは立花さん達と飲みに行く時だけ。その一回一回をいかに千果さんに印象付けるかが俺の勝負所で、雑誌の年上女性の特集記事から得た知識を使って何とか喜ばせるような会話をしようと努力した。だけど俺の方が翻弄されてからかわれるだけで、全然上手くいかなかった。最近は一人で行くようにもなったけど、その辺りはあまり変わらない。

早い段階で立花さんに相談もした。二人の間には一切恋愛感情がないと分かったから。
だけど、千果は見た目ほど難しい奴じゃない、と言われただけ。立花さんから見ればそうでも俺から見れば違うのに、その辺を分かっていないなと思う。確かに出会った当初より色んな部分を見て意外に可愛らしい所があったりする事も知ったけど、それでもまだまだ高嶺の花で。
立花さんは度々助言をくれるけど、どれもハードルが高い。特に、格好付けずにそのままの自分でいろ、っていうのが一番難しい。そりゃそのままでいて好きになってもらえるなら一番良いけど、それだと千果さんとは到底釣り合わない。25を過ぎても俺はまだまだ子供っぽくて、思っているような格好良い男になれないまま。だから少しでも背伸びして、俺の事を見てもらわなきゃ。振り向いてもらえるなら身体壊さない程度の無理なら幾らでもする。


……多分千果さんにとって俺は、立花さんの同僚で、みのりの常連客で、からかいがいのある玩具みたいな感じだと思う。
どんなに見込みがないとしても、それだけの理由で諦めたくない。まだ最大限頑張ってない。今いる位置から少しずつでも上がっていきたい。あわよくば、恋人になりたい。
だから、これまでの足踏み状態はやめにした。


二人でご飯に行きませんか、と言えたのは店が閉まる頃。その日俺は仕事が終わってからすぐにみのりに駆け込んで、いつ切り出そうかと悩んでいる内に最後の客になった。二人きりになった今言わないでどうする、と震える手を握って伝えたんだ。
千果さんの目にその時の俺はどう映っていたんだろう。泣きそうなくらいに緊張していたし、どう断られるかとびくびくしていたし、でも頷いてほしいと念を込めて見上げていた。その姿は全く格好良くはなかっただろうし、子供にしか見えなかったかもしれない。
だけど笑って一言、是非、と答えてくれた。必死な俺への同情だとしても、千果さんの時間をもらえるという事が飛び上がるくらい嬉しかった。
これだけで脈があるなんてとてもじゃないけど言えない。だけど二人で食事をしてもいいと思えるくらいには千果さんの中に俺の存在がある。それが幸せで、もっと近付きたいって思うんだ。

食事は明日の夜。快諾してくれた千果さんに楽しんでもらえる日にしたい。多分、というか絶対緊張するけど、沈黙なんてないように何か話題を考えておかないと。
それから仕事帰りだから一番良いスーツを着て行こう。そうしたら少しはシュッとして見えるかな。仕事のできる男、みたいな。
後は、そうだな。……今からでも背って、伸びるかな……。

 

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