それはきっと、番外編。

些稚絃羽

一歩踏み出せば(徹司)

「じゃあ、今日はこれで上がりでいいからな」
「はーい、お疲れ様でした」
「お疲れ」
立花さんの声を皮切りに、それぞれが挨拶を交わしながら散り散りに去って行く。
「お疲れっスー」
「てっちゃん、何か良い事あるの?」
ごく普通に発した筈の声が妙に浮き足立っているのが可笑しくて思わず口元がにやけたのを、沙希にばっちり見られてしまった。
「お、それがさぁ……」
今抱えている振り切る程の幸福感は少し緩和させておいた方がいいだろう。喜びすぎて圧倒させるだけのお食事会なんて嫌だ。そのためには一番付き合いの長い沙希はうってつけの相手だと思った。
だけど言いかけてから考える。
例えば、今言っちゃうとする。それでもし仮に、ないと信じたいし勿論頑張るけど、何かしら失敗したとする。沙希なら絶対に明日の朝一番で報告を求めてくるし、隠そうとしてもあの手この手で真実を探ろうとしてくるだろう。……っていうか俺がどんなに口を固くしたって、こいつは俺よりもずっと千果さんと仲良しなんだからバレるじゃん、意味ないじゃん。
ということで。
「……何でもない」
「いや、ちょっと、今言いかけたの何だったの?」
「秘密」
「てっちゃん、どうしたのー?! 何かいつもと違う!」
「いいの、上手くいったら教えてやるって」
「上手くって何の事……って、てっちゃーん!!」
コンクリートに跳ねる沙希の追及を振り切って、出口脇に停めた車に乗り込む。
いつもは置いてくる愛車も、今日ばっかりは出勤させた。タクシーで帰って、とかも考えたけどその時間があるなら少しでも早く千果さんに会いたい。鼓動に共鳴するようにエンジンが震える。
まだ誰も乗せた事のない助手席。この空間に招き入れるなんて夢みたいだ。
逸る気持ちを落ち着けるための深呼吸を繰り返すと、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。




メニューは中華。立花さんから、千果さんが中華にはまっているらしいと聞いた時から決めていた。
予約はばっちり。既に一度行って味の方も確認済み。俺には敷居高めだけどお洒落なところだ。喜んでもらえる自信がある。
大通りからみのりに向けて角を曲がる。駐車スペースに車を入れてライトを消すと、辺りにはひっそりとした薄闇が降りた。電気の付いていないみのりを見るのは初めてで、何だか不思議な感じがする。
「……え、何で?」
どうして電気が付いてない? 居ないとか、ないよな?
でも待てよ。電気が付いているとみのりは開店してるって事で。開店してたら食事には出掛けられないよな。じゃあ、消えていていいの、か?
「あ、家。家の方に回ってみるか」
みのりの奥にある二階建ての建物が千果さんの家だ。立花さんが何度も泊まり、菅野ちゃんも泊まり、沙希も足を踏み入れているらしい千果さんの家。目の前に見るのも初めてだ。家を見ているだけなのにこんなに緊張してくるのは何でだ?
伸ばした人差し指の先が震えているのは見なかった事にして、インターホンを押す。
「……ん?」
出ない。プツリと音がして、インターホンが切れたのが分かった。カメラ付きだから確認して無視してるとか……ないよな? 本当に大丈夫だよな?

落ちる静寂に本気で焦り始めた頃。
「どちら様ですか?」
「え?」
待ち焦がれた声がして振り返る。そこにはいかにも普段着といった、細身の白いカラーパンツに赤チェックのネルシャツを着た千果さんの姿が。着物の時は結い上げている髪も、今は片側で三つ編みをして纏められている。
「あ、林田さん? まぁ、どうしよう。
 ごめんなさい、こんなに早く来られるとは思わなくて」
「あ、いえ! 全っ然大丈夫です!
 そういえば時間決めてなかったですね! すみません」
千果さんの手には両手いっぱいの荷物。買い物帰りである事は一目瞭然だった。
何時に来る、と伝えてもいなかったし、楽しみにしすぎて早く来すぎちゃったし、こうなったのは俺の詰めの甘さが原因。落ち着けよ、俺。気まずい思いをさせるんじゃない!
「急いで着替えてきますねぇ。
 上がってください、お茶入れますから」
「ありがと……いやいや、いいっス!
 車に居るんでゆっくり着替えてください」
「え、でも」
「いや、本当に!!」
俺は逃げるように駆け出した。

そりゃあさ、少しも上がってみたいと思わなかったって言ったら嘘になるよ? 上がってみたいに決まってんじゃん。あの生活感のしない千果さんの生活してる空間とか見てみたいに決まってるじゃん、なぁ、俺?
けどさ、いきなりハードル高いよ。変な気起こすつもりなんか更々ないけど、別の部屋で好きな人が着替えてるって思ったら……。
「はぁ……」
それにしてもああいう格好もするんだなぁ。何かちょっと親近感が湧く。別にあの格好でもいいんだけど着替えてきてくれるって、少しは楽しみにしていてくれたって思ってもいいのかな。

コンコン。突然の音に瞑想していた頭を起こす。すぐ傍で見下ろされていて、思わずはっとした。助手席のドアを開けに行こうとしたが千果さんのスムーズな動きには敵わず、せめてもと内側からドアを開けてどうぞと促した。
「お待たせしてごめんなさいねぇ」
「いえ、逆にめちゃくちゃ早くてびっくりです」
カーステレオに表示された時刻を見ると、あれから十分くらいしか経っていない。女性の用意は長くかかるものと思っていたし、実際これまで付き合った子や女友達は約束を十分は遅れてくるのが普通だった。だから覚悟していたけど、まさかこんなに早く出てきてくれるとは。
その姿を見れば先程とは打って変わって、かといってみのりに居る時のような着物とも違って。
深いネイビーのワンピースには赤糸で薄っすらとチェック模様が入っている。普段は隠されたすらりとした脚から目を背けると、包み込むような爪先の丸いベージュのパンプスに少しほっとした。七分袖のノーカラージャケットは優しいオフホワイトで、見慣れた淡い色との相性に改めて納得した。

うん、彼女は綺麗だ。じっと見つめているのに気付かれて、千果さんが控えめに笑う。さっきとの違いに驚いていると思われたらしく、
「スーツ姿の林田さんの隣でアレは流石に、ねぇ?」
と教えてくれた。
あぁ、そうか合わせてくれたんだ。千果さんとの初めての食事だしと気合を入れたけど、気を遣わせたか……。だけどそうやって気にしてくれるのは、俺に恥をかかせないためとかなのかなって思うと、やっぱり舞い上がってしまう。
気取って車を発進させると、話を続けた。
「でもいつも着物が淡い色なんでそういうのが好きなのかと
 思ってました。さっきの格好もそうですけど、雰囲気が
 違うので新鮮です」
手を伸ばすことさえおこがましい様な着物姿から、もっと近付いてもいいんじゃないかって勘違いしちゃうようなラフさへ。服装でこんなにも印象が変わって、千果さんは他にどんな顔を隠しているんだろう。
「普段着はあんな感じですよ、楽が一番ですからねぇ。
 今日は迷いましたけど、中華だし汚れたらいけないから」
零した時の予防線だと言って笑う千果さんは何だか可愛らしくて、やっぱり勘違いしそうになった。



「……あの、さっきから何がそんなに面白いんスか?」
「ごめんなさい……だって……」
通された半個室の席に着くと、ついに聞いてしまった。肩を揺らす程笑う千果さんって今まで見た事ないんだもん。その姿が嬉しくもあるけど、何か可笑しな事があっただろうか。千果さんは謝りながらもなかなか笑いを止められない様で、ふーと息をつくと浮かんだ涙を拭いながら答えた。
「動きが恐ろしくゆっくりなものだから、つい」
店に着いてから席までの俺の動きがツボにはまっていたらしい。エスコート、と念じながら周りを注意して慎重に歩いていたのが裏目に出るとは。
何て言うか、恥ずかしくて隠れたい。
「すみません……」
「いえ、寧ろ安心しました。ちょっと緊張していたので」
まさかと見返せば肩を竦めて見せる。その言葉が本当かどうかなんて付き合いの浅い俺には分からないけど、ひとつ言えるのはこの人は正直な人だ。冗談も言うけど取り繕うような嘘は吐かない。
だからもしかすると。そう思うと頭の後ろの方が熱くなって、だらしなく表情が崩れたのが分かった。

食事の間は主に、LTPの話をした。共通の話題として好都合だったし、いきなり千果さんの事を根掘り葉掘り聞くのは気が引けた。今日は初めてだし、次回がある事を願って楽しみは後に取っておきたいという想いもあったし。焦ってもいい事はない。
「立花さんって、子供の頃どんなでした?」
「うーん、普通だったって答えじゃ駄目でしょうね。
 しいて言うなら林田さんと真逆って感じかしら」
真逆? 立花さんに憧れている身からすれば、どうやったってあんな風にはなれないと突きつけられるよう。少しでも俺に救いのある事が出てくればいいなと思いながら聞き返せば、千果さんは指折り数えて列挙していく。
「可愛げがなくて、男も女も同じ扱いで、鈍くて、自分の
 好きな事にのめり込んだら引きずり出すのに精一杯。
 その上頑固で人の話を聞かない子でしたよ」
「意外です! 今は全然そんな感じじゃないのに」
「Partnerに入ってからかしら、変われたのは。
 ……全てを失ってから初めに得るものが、きっとその人の
 未来を決めるんだと思うわ」
そう言う千果さんの目は優しく、立花さんへの愛情が見て取れた。いつか聞いたように、その愛情は家族愛みたいなものだって自分を納得させるけど、やっぱりそこには俺じゃ代われない何かがある。
立花さんの辛い状況も全て見て、そうして助けた千果さんにとって、立花さんは一言で言えば「特別」なんだろう。思い浮かべる意味が俺と千果さんで違うとしても、あまり差はないんじゃないかと思う。
ああ、駄目駄目。考えれば考える程、何を優先したらいいのか分からなくなる。こんな事考えるのはもう止め!
千果さんだって立花さんだって、恋仲になる事はないって断言しているんだからそれでいいんだ。
俺は千果さんに振り向いてほしい。俺を見てほしい。それだけなんだ。
よし、別の事を考えよう。美味しそうに箸を進める千果さん。ジャケットを脱いでいるからワンピースの丸い首元から鎖骨が覗いて、首にかけてのラインが綺麗……って、これじゃ逆効果ッ!!
「林田さん、大丈夫ですか?」
「はい! お、美味しいですね、これ!」
「それ、もう空ですよ」
「……はい」


それから破廉恥な思考とそれによる羞恥に身を悶えさせながら、何とか会話を続けた。食事の味は美味しかったと思う。事前に確かめているし、千果さんも一品一品を顔を綻ばせながら食べていたから口に合ったんだろう。俺の方は味なんて分からなかったし、幸せそうな千果さんを見ているだけでお腹も胸もいっぱいいっぱい。満たされた感情に身体が重いくらいだ。
「ごちそうさまでした。本当に良かったんですか?」
「勿論です。俺が無理言って誘ったんですから」
本当は一食に使うにはほんのちょっと躊躇する金額ではあるけど、喜んでもらうためなら安いもの。ここで割り勘なんて格好悪いことはしない。
時間はまだ早く、街の夜はこれからが本番なんだろうけど、千果さんの家へ向けて車を進める。
初めてのふたりきりの時間は、デートと呼ぶには可愛らしすぎるかもしれない。それでも自分の気持ちの赴くままに連れ回したなら、二度目はないかもしれない。ガードが固くお客さんの誘いには乗らないことで有名な千果さんがこうして会ってくれたというのに、女将と客、はたまた立花さんの同僚だなんて位置に落ち込むのはご免だ。枠組みなんか取っ払って、「林田徹司」としてその心に残りたい。
そう考えてふと初めに感じた疑問を口にしてみる。
「そういえば、みのりは今日お休みだったんですか?」
「お休みにしたんですよ」
「もしかして、このためにわざわざ?」
千果さんが一人で切り盛りしているみのりは不定休で、だけど殆ど年中無休で開いている。お客さんと顔を合わせている方が落ち着くからだと、いつか話していた。そんな千果さんが店を開けないというのはとてつもないことの様に今更思う。
もしかしたら俺のために。……いや、最初から休みのつもりだったのかも。だからすんなり承諾してくれたとか。そうだとしても貴重な休みを数時間とはいえ俺のために割いてくれたという時点で、かなり凄いことなのでは?
そんな風に色々と思考を飛ばしている俺に、千果さんはすべてを分かっているような深い笑みを向けた。
「どうでしょう? 私は気まぐれですからねぇ」
その美しい表情を見逃さなかったことを、今だけは赤信号に感謝した。


「今日はありがとうございました」
「こちらこそ素敵なお店に連れて行っていただいて」
ありがとうございました、と下げられた頭に合わせて編まれた髪が左右に揺れる。塀に備え付けられたライトに淡く照らされて、夜の暗がりの中でもその髪は艶やかに光って見えた。
今度こそはと助手席のドアを開けに駆け寄った俺をただ静かに待っていた千果さんは、やっぱりそういう扱いに慣れているのだろうと思う。世の中には俺とは違って、エスコートを簡単にやってしまえる男性が居る。そしてそんな人達と交流の深い女性はそれを自然のこととして、ドアを開けずに待ってしまえる。
やってみたいと思ったのは俺自身だけど、何事もないように受け入れられるというのも複雑だったりする。だってそういう大人の男が千果さんの周りには沢山居るってことだろ? その中で張り合ったって稚拙さが浮き彫りになるだけで、それは印象として格好悪い。釣り合うような男になりたいと思うのに本質は程遠くて、真似してみても所詮は真似で。
目の前に立つこの人は高嶺の花だ。遠く眺めるくらいが俺には丁度いいのかもしれない。
そう思うのに。分かっているのに、そんな俺は欲深く。その花に触れてみたいと思ってしまうんだ。
「林田さん?」
「千果さん。……二度目はありますか?」
こんなことを確認する方がおかしいだろう。本当はもっとスマートに、さりげなく二度目の約束を取り付けけばいいのだと思う。だけど今の俺にはこれが精一杯。嫌われたくなくて、これ以上遠くなりたくなくて。ずっと避けようとしてきた「格好悪いこと」だ、だけどふと立花さんのアドバイスを思い出す。‟そのままの自分”。まだまだ子供で、大人じゃなくて、空回ってばかりの俺。
きっと千果さんには全部気付かれてしまうのだろうけど、なりふり構わず必死になる程にあなたが好きだと伝わるなら、それでいい。
千果さんは戸惑うように一瞬目を伏せて、それから真っ直ぐ俺を見つめた。煩いくらいの街の音も、続く言葉を待っていた。

「それを、望んでくれるなら」

  

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