異世界の彼女が僕の心を覗き込む

日比野庵

願い

 帰宅した神楽耶は、ポーチをテーブルに置き、部屋着に着替えてからソファに身を預けた。

 神楽耶は全てを智哉に話した。自分の正体と目的を。『宙の王』を探しに、もう一つの宇宙からやってきたこと。自分がテレポート能力と魂を封印する能力を持つエージェントであり、『宙の王』を智哉の心の中に見つけたものの回収できないでいること。そして、元の宇宙に帰れなくなっていることも。

 智哉も『宙の王』とコンタクトした内容を神楽耶に話した。『宙の王』が、ある情報を求めて、こちらの宇宙にきたこと。そして、『宙の王』が智哉を助けるために自身の情報思念体を分け与えた影響で、離れられなくなってしまっていることを。

 神楽耶は、元の宇宙に帰る方法について『宙の王』に訊いて貰えないかと智哉に頼んだ。智哉は、『宙の王』が元の宇宙へのゲートが開く兆候を待っていることを伝え、神楽耶の依頼を快く受けてくれた。夏休みの終わりの日に智哉の寝室に忍び込んだことも笑って許してくれた。

 神楽耶は智哉が自分の告白をすんなりと理解してくれたことが信じられなかった。勿論、智哉が自分の心の中の『宙の王』とコンタクトしたことも大きく影響しているのだろうと思う。しかしそれでも、智哉は、異世界の住人である自分を受け入れてくれたばかりか相談に乗ってくれた。神楽耶は智哉が自分を助けてくれようとしていることに驚き、そして感謝した。

 ――きっと還る方法はある筈だよ。一緒に探そうよ。

 智哉はそう言った。

 『宙の王』なら、きっと何か帰る方法を見つけてくれる。それは単なる願望にしか過ぎなかったのだが、神楽耶には唯一の希望に思えた。

 あの時、智哉はもう一つ提案をした。

 ――君のこと、兄さんに相談してみたいんだ。僕達だけで悩んでいるよりはいい方法が見つかるかもしれない。勿論、君の秘密は守るよ。兄さんは約束を守る人だから大丈夫。どうかな?

 神楽耶は承諾した。智哉は積極的に行動する方ではないタイプだが誠実だ。落とした『クレスト』を届けに、わざわざ、先回りして駅の改札で待っていてくれた。約束の時間に遅れることもない。その智哉が大丈夫というのなら信頼できると思った。

 神楽耶はテーブルに行き、ポーチから高島屋の包装紙に包まれた小箱を取り出した。智哉がお詫びの印にとプレゼントしてくれたのだ。神楽耶は断ったのだが、どうしてもと智哉は譲らなかった。

 小箱の右肩のリボンをそっと外して、包装紙を破らないようにシールを丁寧に剥がす。神楽耶は包装紙を八つに丁寧に畳んでから、小箱を開けた。

 小箱には緩衝材に囲まれた眼鏡ケースが入っていた。左手でケースを手に取り、右手でケースの蓋を開ける。眼鏡フレームが姿を見せた。神楽耶が今掛けているのと同じアンダーリムの眼鏡だ。フレームは薄い桜色で、テンプルにはスヌーピーの絵柄が入っている。可愛らしいタイプのフレームだった。レンズを覗き込んだが、ただのガラスで度は入っていない。

 ――何故これを。

 神楽耶は一瞬訝しんだが、小箱の中に二つに折りたたんだ紙片を見つけた。紙片には智哉の手書きのメッセージが添えられていた。


『立花さん、君の事を全然知らなくてごめんね。「宙の王」から君の事を教えて貰ったときはやっぱりびっくりした。だけど、向こうの世界から「宙の王」を探しにこっちに来たって分かってしまうと、君の行動は当たり前の事だったんだと理解できた。君もこちらの世界に来て、寂しい思いや辛い思いをしてたんだね。あの時、あんな酷い事を言ってしまってごめん。

 こんなことで許して貰えるとは思わないけど、よかったらこれも使って欲しいんだ。ミローナと闘ったとき、眼鏡を落としたよね。僕が拾ったとき、レンズに度は入ってないことが分かったんだ。立花さんは、きっと何か理由があって、今の眼鏡をしているんだと思う。もしそれが、僕の中の「宙の王」を探すためだったら、今の眼鏡は必要ないよね。僕の中に彼がいるんだから。

 僕はこれまで、人のために何かしようなんて考えたこともなかった。ただ兄さんに追いつくことだけを考えて勉強ばかりしてた。だけど、あの時は立花さんを助けなくちゃと思った。体が動いた時は自分が信じられなかった。

 結局何もできずに、怪我をしちゃって、立花さんに迷惑を掛けてしまった。あのとき立花さんが救急車を呼んでくれなかったらどうなっていたか分からない。ほんと立花さんには助けられてばかりだ。

 抜糸した日も立花さんは僕の顔を覗き込んで、傷跡が残らないか心配してくれたよね。僕の顔の傷は残るかもしれない。だけど、それでもいいと思ってるんだ。これは立花さんを助けようとした証だから。この傷は僕にとっての勲章なんだ。だから気にしないで。

 追伸――
 拾ったときの感触を頼りにサイズを選んだから、もし合わなかったら教えて。取り換えて貰うから。 智哉』


 神楽耶は息を呑んだ。智哉は気付いていたのだ。自分の眼鏡が伊達眼鏡であったことも、顔の傷を隠すためにアンダーリムタイプの眼鏡を使っていることも。

 智哉は自分の顔に傷跡が残ってもいいと言った。神楽耶の顔の傷を慮ってのメッセージであることは明らかだった。

 神楽耶は目頭が熱くなるのを覚えた。脳裏に幼い頃からの記憶がフラッシュバックしていく。のろまだと蔑まされていた幼少時。両親を失い孤独に生きてきた辛い日々。次元調整機構に拾われ唯一の居場所を得た安らぎ。そして今、元の世界に帰れなくなった自分――。

 また孤独になった。神楽耶はそう思っていた。だけど、この世界にも自分を受け入れてくれる人がいた。それが何より嬉しかった。

 神楽耶の両目からきらりと真珠の雫が頬をつたって零れ落ちる。長年、封印されつづけていた何かが彼女の心から溢れだした。

(ありがとう……)

 神楽耶は両手に持った智哉のプレゼントを胸元に当てた。

 しばらくして、神楽耶は、明日、智哉と智哉の兄に会う約束をしていることを思い出した。

 涙をそっと拭ってテーブルの上の鏡の前で、プレゼントされた眼鏡を掛けてみる。サイズはぴったりだった。ぎこちなく微笑んでみる。今までの自分とは何かが変わった気がした。

 神楽耶は脇の引き出しを開けて、友達付き合いで買ったままの細長い箱を摘む。箱の封を開け、リップステッィク型の桜色のルージュを取り出してしばし見つめる。そして、神楽耶は潤んだ瞳で鏡を覗き込みながら、始めてその唇に紅をいれた。 

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